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2013年1月20日



                       
『清濁(せいだく)併せ飲む』

ルカ14章15〜35




(起) パリサイ人・律法学者たちに対してイエス様が語られたところから、「清濁併せ呑む」

ということを学んでいきたい
と思います。

(承) さて、35節に「聞く耳のある者は聞きなさい。」とありますが、聞く耳のある者とは、

どういう者のことでしょうか。例えば、2627節のように、「わたしの弟子となるのなら、

家族や自分の命をも捨てなさい。」と言われたら、「そこまで求められるなら、私には、できま

せん。」と考える人が多いと思います。そして、「できること・できないこと」を頭の中で考え、

「できない」と思うことは瞬間に心を閉じるのです。そして、
その時、聞く耳をもたない者に

なります。
しかし、聞く耳をもつ者とは、「自分にはできないと思っても、それでも聞いて

その通りして行こう。」という、開かれた心をもっている者のこと
です。また、イエス様は15

から、ひとつのたとえ話をされました。ある主人が、晩餐会を開いて大勢の人を招きました。

しかし、招待状を受け取っていた人びとは、「土地を買ったので〜」「牛を買ったので〜」

「妻を娶ったので〜」と言って断ってしまいました。これらの人々とは、律法学者たちのこと

だったのですが、何故彼らは「行きたくない。」と言うのでしょうか。それは、イエス様が

安息日に病人を癒されたからです。(1416節)そのことの故に、「招待状を受け取れない。」

と言い、理由にならない理由で断っているのです。同じように私たちも、「嫌だ。」という思い

や、「それはおかしいんじゃないの。」という反発の思いをもった瞬間に、人の言葉は心に

入ってこなくなります。それは、聞いていないのと同じです。

私たちは、そういうことを子どもの頃から当たり前のようにやって来ました。

そして、自分がそうだと思えないものは、イヤダという主権を持って拒否してきました。

しかし、それでは役に立たず、外に捨てられてしまいます。しかし、

もし本気があるのなら全部聞いていくはずです。「できないものがあっても、全部聞いてやって

いきます。」その心をもった者が初めて役に立つのです。世の言葉の中には、「清濁併せ呑む」

という言葉があり、政治の世界にはよくあることです。また、親方と弟子の関係でもそうです。

本気で弟子入りしようと思うなら、清濁併せ呑む気持ちがなければ、親方は、持っている技術は

そう簡単には教えてくれません。
嫌だと思うことをやらせても、それでもへりくだって学ぼう

としてくる時に、初めて教えようとします。
「親方のこういうところは、嫌だ。」と自我を出し

たり、「親方から何されるか、何を言われるか分からない。」と警戒ばかりしている者は、

いずれ反発して裏切ります。しかし、「親方の言うことに信頼し、へりくだって何でもやって

行きます。」と心を開いた人間には、親方もこいつは見込みがあると思って、技術の神髄を

教えてくれるでしょう。

(転) では、私たちとイエス様の関係について、考えていきましょう。

20年前、私たちの教会は聖霊を求めていたのに、妨げの霊が来ました。その時、私たちが、

へそ曲げて反発していたら、何も学べませんでした。「もしその時、今後一切、聖霊とか悪霊

とかいうものには、一切触れたくない。」と言って拒否し、方向を変えていたら、何も学べ

なかったでしょう。しかし、私は拒否しませんでした。どんなことがあっても、本物を知りたいと

思っていたからです。イエス様から離れたら本物を味わうことはできません。

ですから、濁を呑み、妨げの霊が来たことも受け止め、なお主を追い求めていく姿勢を保った

のです。妨げの霊が来たことによって私の立場は悪くなり、変な噂も立ちました。

しかしそれも受け止めていかなくてはいけません。なぜなら、嫌った瞬間に、聖霊を求める

生き方を止めることになるからです。

イエス様は私たちに濁を呑ませられましたが、それは、「それでもへりくだって従ってくるか」

を試すためでした。
本当に学ぼうと思ったら、選り分けずに、濁の部分も呑まないと分かり

ません。それによって初めて真理が分かってくるのです。


偉そうに、しもべが、「言われていることはわかるけども、私はそうは思わない。」という

我を表わしていたら、学べません。全部心を開いて初めて、主の本意が見えてくるのです。

「いくら妨げの霊の脅かしが来ようが、自分は知りたいんだ。」とリスクさえも受け止める

強い気持ちがなければ、御心の神髄は分りません。この心をもって来たからこそ、今まで

導かれてきたのです。

(結)ですから、私たちは
全面的に主に心を開き、この道に進んでいきましょう。私たちも、

「土地を買いましたので〜」とか「牛を買いましたので〜」と、自分勝手な理由をつけて断る

ことはいつでもできますが、逆に財産の全てを懸け、人生の全てを懸ける覚悟で従うなら、本物を

見ることができます。主のために必要なら、自分の命もかけて、本気でやるべきです。

たとえ命を失うことがあっても、私たちには、不死があります。主は、ハッピーデーには

驚くような方法で朽ちない体に変えてくださるのです。これから、新しいことが起こってきます。

ですから主は、私たちの大きく開けた口に揺すり入れて下さいます。叩き続ける心を緩めては

いけません。叩いた分だけもらえるのです。恐れても遠慮してもいけません。

また、年齢が若くても老いていても関係ありません。
天のお父様は、私たちに与えても、

与えきれないほどの天の宝を持っておられます。
遠慮せずに求め続けていきましょう。

そして、清濁併せ呑む気持ちをもって従っていきましょう。 
  


                                      

  
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