『父の御心にかなった生き方』
マタイ5章27〜48節
@ 山頂で語られたイエス様のメッセージから、目に見えない天の父の御心にかなった生き方
について学びたいと思います。
A さて、山頂の垂訓といわれるこのメッセージは、一般群集というよりも、御許に近寄って
きた弟子たちに向かって語られています。即ち、主を信じている私たちへのメッセージと言える
でしょう。ですから、このメッセージは、クリスチャンのためであり、また、救い主であるが
故に言える、イエス様のメッセージであることが分かります。この観点に立って見ていくとき、
厳しいイエス様のメッセージの意図も分かってきます。
B では、イエス様の語られたメッセージをひも解き、考えてみましょう。
3節で「幸いなことよ。霊において貧しい人々。・・・」と言われています。他の訳では、
「心の貧しい人々は幸いです。」という表現で訳されています。しかしこの正しい訳は、
「霊において」であり、「心の」と翻訳された訳は、原語では英語でスピリット、ギリシャ語で
プニュウマという言葉ですから、「心」というよりは「霊とか魂」と訳した方が良いと思われ
ます。もし、「心の貧しい人々」と訳す場合は、人間的に卑屈だとか弱いとかと解釈されますが、
「霊の貧しい人々」という意味は、父とのつながりが無いという意味です。ですから、むしろ天
の御国に入ることは出来ないとおもわれます。しかし、「天の御国はあなた方のものです。」と
現在形で言われています。では、「霊において貧しい人々」とはどういう人々でしょうか。
それは、創造主との結びつきにおいて貧しい人々のことです。「どうして、そういう人々が天の
御国には入れるの?天の御国は霊的に豊かな人のものではないの?」と疑問に感じるでしょう。
実に不思議な書き出しですが、実はここが福音書のテーマなのです。これは救い主の言葉であり、
イエス様が「霊の貧しい人々を救うために」お出でになったからこそ言える言葉なのです。
このことを理解し、これを前提に考え、この観点から見ていかないと、山頂の垂訓は、単なる
厳しい律法主義に陥ってしまい、私たちは責められて終わってしまいます。また、悪口を言われ
迫害される時、天において受ける報いは大きいとありますが、「イエス様のゆえに」という言葉を
抜きにしたら、律法主義になってしまいます。ですから、「救い主イエス様の故」であるなら、
幸いな者と言えるのです。また、パリサイ人の義に勝る正しさが無いと、天の御国には入れま
せん。とありますし、また28節では、「情欲の対象として女を見る者は、すでに心の中で姦淫
をしたのです。」と言われています。もし心の罪までも厳しく問われたら、罪人の私たちは、
お手上げです。これでは、みんな地獄に行かなくてはなりません。無事に済む人は独りもいません。
すなわち、律法において厳格だと言われる、「パリサイ人の義」に勝る義を手に入れないと、
天の御国には入れないのです。だから、私たちは、イエス様の贖いが必要なのです。イエス様の
贖いによってのみ、「パリサイ人の義に勝る義」をいただくことができるのです。だから、
どんなに「霊の貧しい人」でも、「自分は創造主の救いが必要です。」と認めて、「イエス様の
贖い」を受け取れば、救われるのです。これしか、救われる道はありません。
C 主の救いによって、パリサイ人に勝る義を頂いた私たちは、ハッピーデイには、朽ちない体を
頂くことができます。ですから、天の父の御心にかなった生き方をしていきたいのです。だから、
努力することをやめません。また、諦めません。どこまでも主に信頼し忍耐して従って行く
のです。主は、必ず最高の「うっちゃり」をして、勝利を下さいます。ですから、いつも主の
御心にかなった道を選択していきましょう。そして、「霊の貧しい者」も、天の御国へ入れら
れる、魂の刈り取りの働きをしていきましょう。
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