『私たちの確信』
マタイ10章1〜15節
@ 「聖書に書いてあることは、今日も起こる。」という私たちの確信について学びたい
と思います。
A さて、イエス様は、12弟子たちに、悪霊に対する権威を与えられました。
「そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、悪霊に対する権威を与えられた。それは、彼等が
悪霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを癒すためである。」(十章1節)では、
その権威を与えられたのは使徒たちだけなのでしょうか?いいえ、今日もいろんな所でその働き
がなされています。基本的に、クリスチャンにはその権威が与えられているのです。
ですから、私たちがキリストの権威を持って悪霊に命じるなら、悪霊は出て行かざるを得ません。
ところが、悪霊が出て行くときと、出て行かないときがあるのです。その違いはどこにあるの
でしょうか。
B 先ずキリストの権威について考えてみましょう。イエス様は、9章で中風の者が運ばれて
きた時に言われました。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦されました。」すると、
そこにいた律法学者たちは、「創造主を冒涜している」と非難しました。確かに罪を赦すことが
できるお方は、命の創り主、お一人です。だから、逆にイエス様が、人間の罪を赦されたと言う
ことは、「創造主の権威を持っておられる方」ということです。
例えば、私たちが人に対して犯した過ちは、その相手だけが許す権威を持っています。
他人が割り込んで、赦すと言えば、おせっかいの出しゃばり以外にありません。しかし、他人に
対する罪も、本来は、人が創造主の戒めと定めに背いてやった罪ですから、まず創造主から
赦されることが筋です。このことからも分かるように、罪を赦す行為は、創造主の専権的な権威
なのです。元々この権威とは、何者をもしのぎ、完璧に上に立つものである、あらゆるものを
ひざまずかせる権威のことです。ですから、弟子達に与えられた権威は、被造物である悪魔と、
その子分たちである悪霊たちに向かって命じられたものなら、従うしかありません。このような
凄い権威を、イエス様は私たちに与えて下さったのです。だから、この権威を決して軽んじては
いけません。そこで、キリストの権威を行使する場合、その力が現されるか否かは、「このこと
を信じる」その人の信仰にかかっていると言えます。ですから、イエス様は病が癒された者たち
に対して言われています。
「あなたの信仰があなたを救ったのです。」(9章22)、
「あなたがたの信じるとおりになれ。」(9章29)等々と。
信じる心があった者は癒されているように、信じる事を通してその権威を現すことができます。
キリストの権威を行使するときも、権威に対する信仰が必要なのです。
権威を軽んじたり、不安に思ったり、疑ったりする心があるなら、悪霊は言うことを
聞きませんし、出て行こうとしません。
また、自分の強がりで感情的に攻め立てても、悪霊は言うことを聞きません。
人間の力では、太刀打ちできないのです。ですから、権威は信じるところに現れるということが
明らかです。弟子たちも、追い出せなかったという経験をしています。主の側に立って信じること
が必要だったのです。
C 私たちの教会は、「聖書に書いてあることは今日も起こる」と確信しています。
聖霊のバプテスマも、悪霊の追放も、病の癒しも、心の患いも癒されると信じています。また、
現実にそのことを味わっています。しかし、それでも常に「お前はダメだぞー、お前に何が出来る、
お前にそんな信仰があるのか」と、気が滅入らされるような声が聞こえてきたりします。しかし、
その声に留まっているなら、悪魔の格好の餌食となって信仰は萎えてしまいます。
ですから私たちは、その悪魔に対して、絶対的権威をお持ちの創造主に対して信頼し、
イエス様が下さっている権威を用いて本気で立ち向かっていくべきです。
それは、「聖書に書いてあることは、今日も起こる」からです。どこまでも謙遜に、積極的に。
「主がして下さる!だからやって行こう!」と、その道に向かっていきましょう。 |
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