『聖霊に対して言い逆らう罪』
マタイ12章22〜37節
@ 「聖霊に対して言い逆らう罪」について考え、私たちの信仰のあり方について学びたいと
思います。
A さて、イエス様が、悪霊に憑かれた盲目で口のきけない人を癒されたことで、とんでもない
反応が起こりました。それは、イエスが「悪霊どもの頭で、この悪霊の力で悪霊を追い出している」
と言ったのです。実に不信仰な見方です。これは、「聖霊に対して言い逆らう罪です。」
しかし、私達も同じ言葉を使っていなくても、同じようなことをしている場合があります。
それは、「聖霊に対して言い逆らう者は、誰であっても、この世でも、来たるべき世でも、
決して赦されることがない。」と言われた事柄です。
B では、その「聖霊に言い逆らう罪」とはどういうものなのか考えてみましょう。私たちが
言い逆らうとき、相手を知っているからこそ言い逆らいます。同様に、聖霊を知っている者は
クリスチャンですから、言い逆らうのはクリスチャンなのです。聖霊を知らなければ聖霊に対して
言い逆らうことはできません。聖霊を知らない人が、主に逆らっても赦されます。それは、
主を知らないからです。しかし、クリスチャンが逆らえば、赦されません。「えっ、まさか!
そんな!」と思うでしょう。しかし、考えてみてください。私たちは聖霊の存在を知っており、
又御霊の声をハッキリと聞き分けています。また、イエス・キリストの権威についても知って
おり、又ハッキリとその力を体験しています。ところが私たちは、「お前に、そんなこと出来る
のか〜」という声が聞こえてくると弱気になって、「私には出来ない。ダメだ!」と尻込みし、
不信仰の中に入り込んでしまうのです。これこそ聖霊を汚すことであり、いい逆らう罪です。
なぜなら、聖霊を知っていながら、不信仰の決断を自分がしているからです。
ですから、不信仰の罪は悔い改めねばなりません。では、私たちを尻込みさせる声の正体とは
何でしょう?それは、私たちから出る信仰の本心の声ではありません。正直な自分の声でも
ありません。悪霊の妨げの声なのです。あたかも自分の心の思いであるかのように思わせて、
私たちに揺さぶりをかけ、騙してくるのです。そのようにして主から離そうとするのが悪霊の
仕事です。「悪霊は、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順の子らの中に働いています。」
ですから、悪霊の語りかけてくる声がいつも聞こえてきて当たり前なのです。多くの人は、
その不従順の声が、自分の声だと思わされていますから、そのように考える自分の信仰はダメだと
思って、ますます不信仰になってしまいます。従って、その語り掛けを聞いても、ダメだと思う
必要はありません。悪霊は、イエス様にさえ語りかけてきたのですから。もし聞こえてきたら、
それに囚われないで、信仰の目を持って無視すればいいのです。
私たちが心を向けていくところは、自分自身の現実ではなく、イエス・キリストによる現実です。
それは、イエス様も悪魔と対峙したときに、父に在って判断されました。ですから、私たちが、
イエス・キリストに在って判断するのです。それは、イエスが創造主の御子として持っておられた
特権を私たちも働かせることです。その特権は悪霊よりも強く、その権威の前には悪霊も
服従せざるを得ないという現実です。このキリストに在る現実に立って歩んで行く事が信仰による
歩みなのです。ですから、不信仰の判断は、聖霊に逆らう罪ですから、私たちは、避けなければ
なりません。不信仰をそのまま続ければ、来るべき世でも赦されないからです。
C 私たちの教会は、イエス様から、信仰の養成講座をずっと受けてきました。例えば、真理の
二面性に目が開かれたことによって、聖書の言葉には矛盾が無いことが分かってきました。
私たちの肉は、一面で考えようとします。ですから、相反する記述があるとき、行き詰ってしまい
疑問の虜になってしまいます。しかし、両方を受け留めるなら、疑問から解かれます。また、
聖書に書いてあることは、今日も起こると、そのまま信じていけば良いと確信させられ、
どこまでもイエス・キリストに信頼する道に立つことを学んできました。ですから、聖霊を汚す
不信仰の罪から離れ、信仰の確信に立っていきましょう。 |
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