『主に仕える心』
ヨハネ9章24〜41節
@ パリサイ人たちが安息日を曲解して、イエスを裁いていたことを学び、私たちはどのような
心で主に仕えていくべきかを、学びたいと思います。
A さて、イエス様は、安息日ごとに会堂に入り、聖書から話をされました。
そして、そこに病人がいると、彼らを癒されました。ところが、その行為をパリサイ人たちは
非難の的にしました。また、生まれつきの盲人を癒されたこの日も、安息日でした。そこで、
あるパリサイ人たちは、イエスを、「安息日を守っていないのだから、創造主から出た人では
ない。」と言い、ある者たちは、「罪人がそのようなしるしを行うことが出来ようか。」と
言って、紛争が起きたのです。その原因は、彼らが安息日を正しく理解せず、昔からの言い
伝えに従っていたからです。
B では、安息日を定められた創造主の御心を考えてみましょう。創造主は万物を六日間で創造
され、七日目には全ての創造のわざを休まれました。それ故に安息日を聖なるものとされ、
どんな仕事もしてはならない、と定められました(出エ20章8〜11)。そこでユダヤ人たちは、
安息日の行動について細かく定め、人々を縛っていったのです。それによって、イエス様が病を
癒したのは仕事とされ、安息日を破った罪人と考えたのです。しかし、そもそも創造主が七日目に
休めと言われたのは、人間のためでした。ところが人間は、その心を汲み取らず、安息日を守る
ためには、どうしたらいいのかと頭を悩ませ、創造主の心とはかけ離れた戒めを勝手に作って、
人々を縛っていました。ここに、人間の間違いがあったのです。その間違いを認めず、自分たちを
正しいとするユダヤ人たちは、安息日に癒したという事で、盲人だった人をパリサイ人たちの所に
連れて行きました。そして、「どのようにして見えるようになったのか」、「目を開けたその人は
誰か」、「その人をどう思うか」などと尋問したのでした。あげくには、盲人であったという
事さえ疑い、その両親を呼んで確かめるという始末でした。彼らはイエスを、安息日を破る、
律法に背く罪人として退け、その癒しは悪霊がやったことだと判断したのです。
しかし、癒された盲人は、悪霊によるとは考えたくはなかったし、目を開けてくれた方を罪人だ
とも思いたくありませんでした。創造主から出たことだと信じたかったのです。そうでないと、
目が開けられても、悪霊の仕業では救われません。私たちも、この命が、進化による、偶然だと
思いたいですか?もし、進化なら、でたらめに存在した命になりますから、救われません。
ですから、盲人は、キッパリと言いました。「あの方が罪人であるかどうか、私には分かり
ません。ただ一つのことだけは分かります。私は盲人であったのに、今は見えるということ
です。・・・もしあの方が、創造主から来た人でなかったら、あの方は何一つ出来なかった
はずです。」と。彼は自分が盲人であったことをハッキリと認めました。ですから、イエス様が
創造主から出た方であると分ったのです。私たちも、自分が罪人であることをはっきり認めれば、
イエス様に出会った時、主を信じ拝することが出来るのです。そして、イエス様が、創造主から
出た方であると信じることができます。この方によって救われることができるのです。そこで、
イエス様はパリサイ人たちに、「『自分は、盲人ではない、見える』と言い張るところに、
あなた方の罪がある。」と言われました。それは、もし自分が盲人であることを認めるなら、
自分も罪人であることを認めることになります。そうすれば、イエス様の救いを受け取る者に
なれるのです。それは、間違いをハッキリと認めるなら、創造主が見えてくるからです。ここに
パリサイ人の問題がありました。
C 私たちは、自分が罪人であると認めたクリスチャンです。
しかしながら、救われた者でも、罪を犯してしまう者です。そのとき、当然叱られたり、
注意されたりしますが、それは当然のことです。ですから、怒られて反発したり、自己弁護する
思いを砕いて主の側に立つなら、目が開かれてくるのです。救われた者として、自分の判断の
間違いをいつも認めていくなら、創造主が見えてくるのです。そうでないと、目が開けられても、
自分の都合の中で生きてしまいます。イエス様は、「わたしに仕えようとするなら、わたしに
従ってきなさい。」(12章26)と言われました。本気で仕えたいと思うなら、自分の見方の中
に生きるのではなく、創造主の見方で生きていく心を持って仕えていきましょう。
パリサイ人の誤りは、ここにあったのですから。
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