『弟子がサタンのふるいにかけられる訳』
ルカ22章31〜34節
@ ペテロが、サタンのふるいにかけられて、三度もイエス様を知らないと言った、ペテロの
この体験の意味を考えてみたいと思います。
A さて、今回私は、31・32節の御言葉に心を留めさせられました。ここ30年以上通読を
通して精読してきましたのに、格別心に留まるものではありませんでした。しかし、今回、
私たちの20年前の体験と相まって、イエス様のおことばに、心が響いてきたのです。
また、それに加えて、私たちは以前から苦しんでいる教会を助けていきたいと願ってきました。
ですから、心を留めさせられたのは、主の約束がまじかに迫っている前触れのような予感を覚えた
のです。またペテロにとっては、これから主の働き人として立っていくために、どうしても、
我が砕かれなければなりませんでした。
B では、ペテロにとってこの辛い体験は、どのような意味を持っていたのでしょう。イエス様は
言われました。「サタンはあなた方を麦のようにふるいにかけることを願って許されました。」と。
ペテロだけではなく、12弟子全員がふるいにかけられたのです。私たちは、「主の弟子たちが、
何故サタンのふるいにかけられるの?」と考えますが、私たちクリスチャンも、サタンのふるいに
かけられるのです。しかしイエス様は、「あなたの信じる心がなくならないように、あなたのために
祈りました。ですから立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われたのです。
ペテロが立ち直った背後には、イエス様の祈りがありました。それにしても、ペテロにとってこの
経験は、完璧に自身を失う経験であったと思います。彼は「死ぬことさえ覚悟しています。」と、
カッコの良いことを言っていた矢先の出来事でした。ですから、言い逃れが一切出来ない状況を
味わったのです。彼はこのことを通して、自分の罪の醜さが、どんなに深いものか初めて知りま
した。そして、自分の肉の情熱や熱意だけでは、主に従っていくことが出来ない人間だということを
知ったのです。
実に、罪人が主に仕えていけるのは、主のあわれみです。彼はこのことが分かっていませんでした。
正義感を振りかざしてやっていたからです。しかしこの経験を通して、自分のよって立つ
根拠を失ってしまったのですが、その後のペテロは、自分の都合の良いときだけ信じるという、
自分の感情に根拠を置いた信仰ではなく、主を100%信じて、そのまま聞いて従って行く者である
ことを悟ったのです。そして、殉教の死に至るまでへりくだって、生涯主に従い通したのです。
C 主は、ペテロに語っておられました。「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
−これは私たちの教会へのお言葉でもあります。というのは、私たちの教会も、空っぽの器に油が
満たされたなら、自分たちの持ち出しでも、苦しんでいる教会を助けて行きたいと願っていた
からです。そんな私たちに、サタンはふるいにかけようとやって来ました。その体験はペテロと
同じように、あれ以来自信を失う苦しいものでした。しかし、今はっきりとその意味が分かって
います。それは、ペテロと同じように、将来の働きのための訓練として経験させられたのです。
それ以来、イエス様一筋に生きてきました。そして、今残されている者たちは「さまざまな試練の
ときにも、最後まで一緒に踏みとどまってくれた人たちです」(ルカ22:28)。
それは私たちを用いるために計画されたことだったからです。そして、私たちも立ち直ったら、
「兄弟たちを励まして上げなさい」と言われているのです。いよいよ、その時が来たようです。
ですから、この御言葉に目を留めさせられました。私たちは、ペテロのように、生涯、
死に至るまで主に仕えていきたいと思います。イエス様は、私のために、100%生身の
人間としての苦しみを味わってくださいました。それを思うと、ペテロのように本気で心から、
主に仕えていきたいと思います。 |
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