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2012年12月16日


 
 『霊的な心』






エペソ4章1〜16節




(起) 今朝は、私たちが、キリストの満ち満ちた身丈の徳に達するためには、「霊的な心」が

必要である事を学びたい
と思います。

(承) さて、私たちの教会は、「空っぽの器に油が満たされる」と導かれてきました。

そして、
空っぽの器というのは、「砕かれた悔いし魂」であり、一人一人がへりくだってその

心を身に付けていくようにと取り扱われてきました。更に、私たちの信仰の成長を妨げている

「妨げの霊」を追放すべきであると導かれてきました。何故なら、私たちの戦いは、血肉に対する

ものではなく、もろもろの支配と、権威と、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいる悪の

霊に対する戦いでだからです(612節)。悪霊は、何とかしてクリスチャンたちを妨げ、

その働きを邪魔しようとしてやって来ます。もし妨げの霊が追い出されずにいるなら、たとい

聖霊の賜物を頂いても十分に発揮できないばかりか、聖霊から来るものと悪霊から来るものとが

ゴチャ混ぜになって、力を失ってしまいます。それが、周りの人々に不信感や怪げんな思いを

与え、聖霊の働きに対する嫌悪感と誤解を与えることになります。ですから、
主の働きには、

聖霊の働きと、悪霊の追放という両輪が必要
なのです。それによって、整えられて奉仕の働きを

させて、キリストの体を建て上げさせてくださるのです。


(転) では、キリストの体を構成する私たちが、それぞれの部分が、分に応じて働き、からだ

全体が成長させられていくために必要なものは何かを、御言から見てみましょう。主は、ある人を

使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師、教師としてお立てになりました(11節)。

それは、聖徒たちを整えて奉仕の業をさせ、キリストの体を建て上げさせるためです。

例えば、奉仕をする場合、言われたことだけを、やったというだけで、そこに心を使った跡が無い

奉仕だったらどうでしょう。形だけのいい加減で中途半端な奉仕では、やり直さなければならず、

役に立たず、叱られるだけです。心が伴なっていない奉仕では、役に立ちません。更に、たとい

心を使ったとしても、相手の求めの真意を考えず、何を求められているのかも考えようとせず、

勝手に自分のカラーを出して、褒めてもらおうとする場合があります。この心の使い方は、

世間では認められるかもしれません。しかし、主の御前では間違いなのです。自分を出そうとする

肉の心は、霊ではないので、主の求めには適いません。主の奉仕には、霊の心が必要なのです。

だから、指導者が立てられているのです。では、
霊の心とは何でしょうか。657節で言われて

いるように、
人にではなく、主に仕えるように、しかも、人のご機嫌取りのような上辺ではなく、

心からキリストのしもべとして仕える心です。
霊の心を働かせてやるなら、義務感ではありま

せん。自分を出すことでもありません。たとい叱られても、素直に謝ることもできます。

心の使い方によって、魂が喜び、主が喜ばれるのです。ところが、妨げの霊は、そこまで行かせ

ないように働き、そうしたいという思いはあっても、肉の思いを優先させるのです。ですから、

クリスチャン一人一人にこの妨げの霊が入っていますので、それに気づいて、追い出す必要が

あります。
しかも、信じる前に入っていたものは、信じてからの信仰の成長を妨げようとして、


隠れたままで働き続けます。ですから、私たちは、拳闘する相手を見定めて闘うように勧められて

いるのです。

(結) そのことが分かったなら、妨げを取り除いて行きましょう。それが、霊の心を使っていく

行き方です。そして、キリストの満ち満ちた身丈の徳に達するために、与えられた賜物の力量に

応じて、霊の心を用いて力量が発揮されていくように整えて行きましょう。
 
  


                                      

  
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