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2011年 NO.391



弱い私に、なぜ行いが求められるの!』

 イエス様を信じて救われたいと願った人々の多くは、もともと人間的に弱く、人間的能力も

1タラントしか持っていない人々がほとんどです。御言の中にも、

「あなた方の召しのことを考えてご覧なさい・・・この世の弱い者、取るに足りない者、

見下されている者、無きに等しい者を選ばれました。」
(Tコリント1:26〜28)

とあります。ですから、こんな罪人をイエス様の贖いを信じる信仰の故に救われるという

ことは、すごいことです。そして、ただ恵みで信じました。

 ところが、信じたからといって、人間的に強くなったわけではありません。

しかし、主に在って、しっかりと生きて行こうと思うと、やっぱり行いを求められます。

弱いままの自分では通用せず、能力がないからといって逃げていくことも許されません。

「すると、やっぱり行いか! 罪人で弱い人間だから、イエス様を信じたのに!

これでは、信じる前の世界と同じではないか!」とがっかりします。

「信じて強くなったわけでもないのに、弱い私に行いを求められたら、

やっていけない! 救われても同じじゃないか」と。



 しかし、皆さん、クリスチャンは信じる前と信じた後では、同じではありません。

大きな違いがあります。それは、「弱い私、取るに足りない私、能力のない私」それでも、

そんな弱い人間に、主の助けがあるということです。この主の助けを味わって、変えられた

自分で、主に仕えていくか、 主の助けを求めず、弱いままの自分で世をはかなんでいくか、

それは私たちの主に頼る心にかかっています。


もしクリスチャンが、本気で主に頼ってやるなら、この世で一番弱い人間であった

ザアカイさんのように「人にはできないことが、創造主にはできるのです。」という恵みを

味わうでしょう。これは、クリスチャン一人一人が主を信じ仰ぐ力があるか、ないかにかかって

いる問題です。

もし、主に力強く用いられたいと願うなら、強力に主に助けを求めていくでしょう。

そうすれば、自ずから私たちは、変えられていくのです。(ピリピ3:12〜14創造主訳より)

パウロさんでも、自分は強いと思っていなかったのです。弱い自分でも、主に頼る心があるか

ないかで、クリスチャンの価値が決まってきます。
主に頼る人は、あきらめず自分の心に命じ

続ける努力をします。


                       


                           


     
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