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2011年6月5日



主を信頼し、貫く生き方


ガラテヤ2章15〜3章14節




  

@ 今朝は、創造主によって義とされた立場を持つ私たちは、「主に信頼せよ。主が成し遂げて

下さる。」という生き方を実践していくことであること
を学びたいと思います。

A さて、ロマ書とガラテヤ書で言われている事は、「人が義とされるのは、

律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による。」という事です。

ここで、「義とされる」とは創造主に受け入れられるという事ですから、真っさらな罪のない

人間になることだと思ってしまいます。特に、イエス様が十字架上にて「完了した」と

言われたのだから、クリスチャンは罪から解放されているのであって、悪霊に影響されることは

ない、と考える人々もいます。しかし、
真理には二面性があるのです。

確かに、イエス・キリストを仰ぎ信じたことによって罪に対して死に、罪から解放された者と

なりました。ところが、現実の自分自身を見るなら、この事実を確認することはできません。

というのは、これは
過去において、イエス・キリストの贖いによって完全に完了したという

その立場を頂いたもの
であって、この地上にいる限りは生まれながらの肉を持っていますから、

なおも肉の戦いはある
のです。(ガラ2:20、5:17)。

B では、義とされた立場をいただいた者、また天に国籍を持つ者とされた私たちは、


この地上でどのような戦いをしていけばいいのでしょうか。


結論から言うならば、
「主を信頼し、主が成し遂げてくださる。」という生き方を貫いて

いくことです。
ただこの生き方を、普段の生活の中で、どこまでも貫けるかという問題が

あります。

ガラテヤの人々は、御霊で始まったことを、肉で完成しようとしていました。

それは、なおも自分自身に頼って生きていこうとしていたことです。信じたクリスチャンは、

自分の力では救われないことが分かって信じたはずです。なのに、初めは主に頼って始めた事柄も、

信頼し続ける忍耐をもてず、自分の考えに頼って、手っ取り早く解決しょうとするのです。

ですからパウロは、「ああ、物分りの悪いガラテヤ人よ。」と言っているのです。

「あなたがたが御霊を受けたのは良い行いをしたからなのか、どっちなのだ。御霊で始めたのに、

今になって肉で仕上げるというのか。」と。

肉で仕上げるとは、自分の考えや自分の発想でやるということです。


今回のエジプト・イスラエルの伝道ミッションは、様々な世界情勢や大震災などもあり、

一度は延期しようかと考えました。しかし、主がゴーサインを出しておられると分かり、主からの

志しだと確信しました。「創造主は志を立てさせ、事を行わせて下さる」(ピリピ2章13)。

だから、「主が全責任をとって成し遂げさせて下さる。」と、ただ主に信頼して出て行きました。

案の定、さまざまな妨げの出来事がありましたが、全て主が成し遂げてくださいました。

このように、
どんなことがあっても、主に頼ったのなら、最後まで、主が成し遂げて

くださるのを信じて信頼していくことが、今日のクリスチャンの生き方です。

地上にいる私たちが自分で判断すると、自分を守ろうとし、また自分に責任が

かかってこないような卑怯な道を選んでしまうのです。その結果、主に信頼するのではなく、

肉で仕上げる事になり、「主が成し遂げてくださる」ことを味わえなくなってしまうのです。


C 私たちは、「聖書のことばは、今日もなる。」ということを証ししたいという、

志を与えられました。その生き方を貫いていかなければ、それを味わえません。

ですから、
どこまでも待つという忍耐が必要です。そして、キリストと共に十字架につけられた

私たちは、キリストを信じる信仰によって生きる生き方を貫いていくことです。


私達はどこまでも主に信頼していく生き方でいいことを証ししたいと思います。

                                        

  
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