@ 今朝は、「御言を聞いて悟る」には、どのようにすればよいか?
それは、キリストの側に立って考えることが、「悟る」ということであることを、
学んでいきたいと思います。
A さて、主の弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べていました。
すると、パリサイ人が来て、「安息日にしてはならないことをしている。」と言って非難しました。
律法によれば、「安息日は聖なる日であり、どんな仕事もしてはならない。」とあったからです。
しかも、彼らはその律法を遵守するために、様々な規則をつくり、
それによって人々を縛り、非難していました。ですから、当時のイスラエルでは、
こんな些細なことでも咎められてしまうのです。
しかしここで、イエス様は、「ダビデが、祭司でもなかったのに供えのパンを食べた。」という
例を挙げて、「わたしはあわれみを好むが、いけにえは好まない」、
「人の子は安息日の主です。」と。
言われました。しかし、彼らはその意味を悟ることが出来なかったのです。
B では、「悟る」事について考えてみましょう。
イエス様は、律法を教条的に受けとめて神の心を無視しているパリサイ人たちに
言われました。「もし自分が持っている一匹の羊が安息日に穴に落ちたら、
それを引き上げてやらないでしょうか。
人間は羊より、遙かに値打ちのあるものでしょう。それなら、安息日に良いことを
することは、正しいのです。」と、片手のなえた人を癒やされました。
それでもパリサイ人たちは、イエス様の心をくみ取ろうとせず、
「安息日に人を癒した。」という、只その行為にのみ目を留めて、
イエス様を排斥しようとしたのです。
そこで、イエス様は、聞いても悟らない、見ても分からないパリサイ人に、
種蒔きのたとえをもって教えられました。まさに、このことこそが、私たちの鈍い心に
語りかけられているメッセージです。
それは、−天の御国の言葉を聞いても、自分を変えたくないので無視する(道端の種)。
次に、御言を聞いても、心に結びつけないため、
直ぐに自分勝手な生き方をしてしまう(岩地の種)。
お金がなければ生きていけないと思い、まず生きるためにお金だ・・・と
御言から離れていく(いばらの種)。
−私たちも、このように「分かっていても悟ろうとしない部分」があるのです。
クリスチャンは、良い地に落ちた種だと勝手に思いこみ、イエス様の言わんとする心を
くみ取ることが出来ません。まずへりくだって、自分の先入観や肉の考えを捨て、
どこまでもイエス様の言わんとする心に立って聞けば、分かってくるのです。
良い地に蒔かれるとは、自分の肉を否定し、砕き、心を明け渡して悟る人のことです。
パリサイ人たちも、イエス様の側に立って聞いたなら、イエス様が「祭司以上の方」で
あることを理解し、「安息日の主」であることを悟ることが出来たでしょう。
C 主のメッセージは、「悟りなさい」です。それは、私たちがいつも主の側に立ち、
自分の我に立たないことです。もし、自分の肉に立って聞くのなら、
聞き流しとなって悟れないのです。
しかし、みことばを聞いて100%悔い改め、主一本で生きていくと心を変え、
主に心を定めていくなら、教えられているときも、叱られているときも、
どんなときも主の側から見、理解して悟ることが出来、霊的世界のすばらしさを
味わうでしょう。主は私たちに実を結ばせたいのです。
へりくだって主の側に立っていきましょう。 |