『イエス様に留まり実を結ぶ』
ヨハネ15章1〜8節
@ 今朝は、2節の御言から、「枝が実を結ぶ」事について考え、学びたいと思います。
A さて、イエス様は弟子たちに言われました。「わたしの枝で実を結ばないものは、みな父が
それを取り除き、実を結ぶものは、もっと多く実を結ぶために刈り込みをなさいます。」と。
即ち、イエス様はぶどうの木で、私たちクリスチャンは枝です。その枝が実を結ぶようにと、
農夫であられる父(創り主)は刈り込みをなさるのです。
ですから、クリスチャンが多くの実を結ぶのは、父の喜びであるのです。
ならば私たちは、「成長し、多くの実を結んでいくクリスチャンになりたい」と願います。
B では、どうすれば多くの実を結ぶことが出来るのでしょうか。
もし、私たちが「自分には何の賜物もなく、生まれつき能力もない人間だ。」などと思って、
そこに留まっていたら、一つも実を結ぶことは出来ません。人生に生き甲斐もなく、
信仰さえ空しくなってしまいます。
ところが、そんな私たちでも実を結ぶ事が出来る者であるなら、主が私たちを選んで下さったことが
嬉しくなります。そして、そんな私たちが実を結んでいくための条件はたった一つ、
イエス様に留まることです。留まるとは信じることですが、信じるとは、ただ「信じている。」と
言うだけではなく、主を信頼して徹底的に主の心に同意して従うことです。
この生き方を生涯を貫いた信仰者として、ジョージ・ミュラーさんがいました。
私は45年程前にその本を読み感動しました。その時から、こうありたいと思ってやって来たのです。
確かに当時は、「凄いな。その通り出来るかな。」という不安がありました。
それは、具体的にはお金の問題です。私たちの心には、「たった2匹の魚と5つのパンでは、
こんなに大勢の人々に何になりましょう。」という感覚があります。
お金がなければ、何も出来ないからです。それは、世の常識であり、現実として子どもの頃から
味わってきました。ところが、ミュラーさんの神への信頼は、その常識を超えたものです。
そのような生き方は、自分は見たことがありません。ですから、不安が来たのです。
しかし、ジョージ・ミュラーの神は、私たちの神でもあり、昔も今も変わりません。
生きておられる神、いのちの主がおられるのですから、信頼していくのが当然だと思ったのです。
そこで、ミュラーさんの生き方を私たちの教会も同意しました。
そこで一旦同意すると、「お金がないから出来ません。」と言えなくなります。
たとい、「出来ないぞ。」という思いが来ても、その肉の心を砕いて信頼する方向に向かって行った
のです。こうして私たちが、創り主を信じていく勇気、信頼していく勇気を学び培ってきました。
C イエス様は言われます。「あなたがたがわたしに留まり、わたしの言葉があなたがたに
留まるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのために、
それがかなえられます。」と。また、「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、
また、それよりもさらに大きなわざを行います。」私たちは、御霊の助けの故に、プラスアルファの
働きをさせていただけるのです。この生き方は、イエス様に留まって神の国の力で、世俗の世界に
挑戦していく生き方です。そして、その実を結んでいくなら、神の栄光となり、私たちの信じる
創造主は、昔も今も変わらないことが証しされていくのです。
これからは、バイブルランドの実現に向かって、ミュラーさんのようにイエス様に留まって実を結ぶ
者とされていきましょう。 |
|