『新しい命の中に歩む』
ヨハネ3章1〜8節
@ 今朝は、「新しく生まれる」事について学びたいと思います。
A さて、イエス様はニコデモに言われました。
「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と。
しかしニコデモにはその意味が分かりませんでした。
ですから、「もう一度、母の胎に入って生まれることができようか。」と聞き返したのです。
そこでイエス様は言われました。「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることが
できません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」と。
即ち、ニコデモが言うような肉による生まれ変わりではなく、イエス・キリストを信じる
信仰によって得る「新しいいのち」であると言われたのです。
B では、「新しいいのちを得る」ことについて考えてみましょう。
今回気づかされたことですが、永遠のいのちを頂くためには、その前の存在が
必要だということです。つまり、私たちが親を通して得た肉のいのちです。もしこの肉のいのちが
なかったなら、キリストによる新しいいのちを得ることも出来なかったのです。確かに信じる前は、
生まれた環境や能力などを羨み、「生まれてこなかった方が善かった。」などと思うことも
ありました。しかし、どのような境遇であれ、親から生まれた命を持っていたからこそ、
御霊によって生まれるという経験ができたのです。
ですから、命を下さった創り主に感謝しなければなりません。そこである者たちは、
「新しいいのちを受けることがなかった者たちはどうなのだ」と言うでしょう。
しかし、そのチャンスはみんな頂いているのです。自分の命のことについて考える者を、
主は放っておかれないからです。しかし多くの者たちは、恐れるべき方を恐れず、へりくだろうとも
せず、傲慢な思いの中に自分を是として生き、永遠の命について考えようともしません。
この地上に生まれるチャンスは一回だけです。その中で、永遠のいのちを頂くチャンスが与えられる
ということは素晴らしいことです。5章にはそのチャンスを与えられた者について記されています。
その人は、38年間も病の中にいました。ベテスダの池の回りには大勢の病人がいましたが、
イエス様はたった一人の人に語りかけられたのです。彼は自分で動くことも困難でしたが、それを
助けてくれる人もありませんでした。その絶望的な状況の中で、何とかして直りたいという
切なる心を持って待っていたのです。主はその心を受けとめられ、語りかけられて癒やして下さった
のです。彼は大勢の病人の中の一人でした。その確率は、私たちが永遠のいのちを
頂いた時のように、特別な確率です。同じように、私たちも、絶望的な中で、何とか永遠の命が
欲しいと願うなら、主は、近づいて来て下さいます。
C 主は、「水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。」と
言われました。水とは、悔い改めのバプテスマのことです。また、御霊とは、御霊のバプテスマの
ことで、キリストによってバプテスマされ、新しい永遠のいのちを得ることです。
ところが、御霊によって生まれることは、風のようで、その音を聞くが、どこから来てどこへ行くか
分かりません。そこで、自分の救いを疑い、不安を感じるのです。しかし、そんな時、シンプルな
意識を持ちましょう。それは、「私のいのちは偶然か?」と問いかければいいのです。
その答えは、一つです。「創り主がいる。」と分かると平安が戻ってきます。
私たちは、創り主によらなければ出来ない命でした。だから、創り主は、キリストの救いによって
私に永遠のいのちを与えることができる。
この方にシンプルに信頼し、新しい命の中に歩んでいきましょう。 |
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