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2010年5月2日





固定概念を捨てて、信頼する





マルコ11章12〜15、20〜25節




  

@ 今朝は、私たちが、「固定概念」に縛られずに信仰を働かせていく事について、

学びたいと思います。

A さて、ベタニヤからエルサレムへ向かう途中で、イエス様は空腹を覚えられ、イチジクの木に、

何かありはしないかと期待されたのですが、葉っぱだけで実はありませんでした。実のなる季節では

なかったからです。そこで、イエス様は、その木に向かって言われたのです。「今後、いつまでも、

だれもおまえの実を食べることのないように。」と言って、その木を呪われました。そして翌日、

そのイチジクの木は根まで枯れていました。これを見た弟子たちに、イエス様は言われたのです。

「神を信じなさい。心の中で疑わず、ただ、自分の言った通りになると信じるなら、その通りになり

ます。」と。この理不尽と思える出来事を、私たちは、どのように理解したらいいのでしょうか?

B では、イエス様の真意について考えてみましょう。ペテロは、「イチジクの木が、イエス様に

呪われたので枯れてしまった。」と言いました。確かにそうですが、注意しなければならないことは、

私たちと同じ罪の意識から身勝手に呪った、と受け取るべきではないということです。と言うのは、

25節で主は、「祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。」と言われ

ているからです。つまり、イエス様は身勝手な恨み事で枯らしたのではなく、聖なる御心を持って

おられたと言うことです。それは、どんな御心だったのでしょうか。

私たちは、いちじくの実がなるのは夏だから実がないのは当然であって、この時期に実を求めるのは

無理なことだと考えます。しかし、思い出してください。水が一瞬にしてブドウ酒になったことも

あり、また、湖の上を歩いて渡られたり、五つのパンと二匹の魚で5千人を満腹させたりと、

主はあり得ないことを数多くされてきました。それらについては目くじらを立てないのに、

いちじくの木については目くじらを立てるのは何故でしょうか。

それは私たちが
固定概念(実のならない時期に実はつかない)にとらわれているからです。

イエス様は弟子たちに言われました。「だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と

言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、その通りになります。」

と。ところが私たちは、「山が動いて海に入るなんて」、
私たちが言っても絶対ならない、と決めて

かかっています。
この頑固な固定概念を捨てなさい、と主は言われているのです。この信仰を妨げて

いる固定概念を捨てて、初めてイエス様の言われたおことばを受け入れることが出来、「信じよう」と

心が変わってくるのです。
私たちには様々な固定概念があり、それらに縛られて信仰を働かせるこ

とが出来なくなっています。いちじくの木を通してイエス様は、このことを教えたかったのです。

C イエス様は言われました。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。

そうすれば、そのとおりになります。」。全知全能の創り主で在られる主は、ご自分の創られた

法則をも超越して事を行える方です。ですから私たちは、
固定概念を捨てて、この方に信頼すれば、

祈ったことはすでに得たと信じて良いのだと分かります。
もし、ダメだと決めつけて信じなければ、

いちじくの木のように役立たずとなってしまいます。「主がしてくださる」と、信仰を働かせて前向き

にイメージしていくなら、主は喜んでくださり、私たちのために、法則さえも変えて事を成就して

くださいます。どこまでも
固定概念に縛られず、主を信頼する勇気を持っていきましょう。

                                        

  
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