『砕かれた心』
マルコ10章17〜31節
@ 今朝は、永遠のいのちを求めてイエス様の所に来たのに、去って行ってしまった青年について
考えながら、私たちが失ってはならないものは、「砕かれた心」であることを学びたいと思います。
A さて、イエス様の所にひとりの青年が走り寄って来て、ひざまずいて尋ねました。「尊い先生。
永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」。
戒めは小さいときから守っているというその人にイエス様は、「あなたには、欠けたことが一つ
あります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そのうえで、
わたしについて来なさい。」と、選択を迫られたのです。すると彼は、顔を曇らせ、悲しみながら立ち
去って行きました。多くの財産を持っていたからでした。彼が多くの財産を捨てることが出来なかった
一番の問題点は何だったのでしょうか。
B では、この青年に欠けていたものについて考えてみます。彼は小さい頃から戒めを守る真面目な
生き方をし、しかも有り余るお金で何不自由なく生きていました。しかし、平安や安心感もなく、
幸せ感もありませんでした。ですからイエス様の所にやって来たのです。にもかかわらず、
「財産を捨てて貧しい人に施し、その上で従ってきなさい。」と言われたイエス様から、去って行って
しまったのです。同じようなことを、ペテロもしました。
ペテロは、「何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」と言いましたが、イエス様が捕らえ
られた晩、三度も「知らない。」と否定して、主から逃げたのです。
また、労務者の譬えの中で、朝早くから夕方まで働いた労務者は、仕事を貰えた喜びを忘れ、
1時間しか働かなかった者と同じ賃金であることに不満を持ち、主人に文句を言ったのです。
それによって、彼の一日の労苦と忍耐は無駄になってしまいました。
彼らに共通しているものは何でしょうか。それは、自分は、「行っている」と思っていた自負心です。
もし青年たちが、永遠のいのちのためには、戒めも財産も意味がなく、砕かれた心を持って主に
へりくだって従っていくことだと知っていたら、イエス様から、離れて行くことはなかったでしょう。
又ペテロにしても、「自分は従っていける」と自負するのではなく、そんなに強い者ではないと弱さを
認める砕かれた心を持っていたなら、違った展開になっていたことでしょう。
労務者にしても同じです。仕事が出来て生き甲斐を感じる一日を過ごせた事を喜び、何と素晴らしい
一日だったろうかと感じるなら、その心こそ砕かれた心ですから文句を言うこともなく、満ち足りた
一日となったことでしょう。こうしてみるとき、私たちに一番必要なものは「砕かれた心」であり、
イエス様が青年に一番願っておられたことだと分かってくるのです。
C 私たちがタイムスリップし、青年の傍らに立って聞いていたなら、語りかけてあげたい。
「あなたは、大きな損失をしたのですよ。いくら、多くの財産を持っていても、永遠の命を失ったら、
泣いて歯ぎしりしても、永遠の苦しみの中で生きていくことになるのですよ。」と。
この客観的に見て語りかける目を、私達は、自分自身に向けていきたいと思います。
私達が自分のいのちを買い戻すために差し出すものがあるとすれば、それは自分のメンツや
プライドです。カッコつける必要はありません。へりくだった砕かれた心さえあれば、
主は顧みてくださいます。この心を主は、軽んじられることはありませんから。 |
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