『上級者の信仰のイメージ』
ローマ3章20〜24節
@ 今朝は、上級者の信仰のイメージについて考え、学びたいと思います。
A さて、パウロがローマ人への手紙を書いたのは、コリントでアクラとプリスキラ夫婦に出会い、
ローマに居るクリスチャンたちの様子を聞いて、ローマのユダヤ人クリスチャンたちの信仰の理解を
ただすために書き送りました。そして、「義人は、信仰によって生きる」ものですから、
その行いも、自分の誇りのためではなく、だだ、主の栄光のためにする、上級者の信仰の歩みを
するように語りかけています。
B では、パウロが伝えたかった信仰の真髄について考えてみましょう。
神の選民として律法を与えられていたユダヤ人は、律法を守り、主の命令に従って生きていくことに
誇りを持っていました。異邦人も又、良心に従って生きていくという誇りを持っていました。
しかしパウロは、ハッキリと断言しています。「律法を聞いて、知っているから神の前に正しいので
はなく、行っているかどうかで決まるのです。」と。彼らは、律法を聞いても、違反して生きてきた
のですから、たとい割礼を受けているからといっても誇ることは出来ません。だから、「律法の下に
あるユダヤ人であっても、神の前に義と認められる人は一人もいない。」のです。
「律法によっては、罪の意識が増すだけです。」
ですから、ユダヤ人も異邦人も、神の裁きは逃れられないと語っています。
しかし神は、律法とは別の方法で救われる方法を与えてくださいました。
それは、イエス・キリストを信じる信仰による義であり、恵みによって義と認められるのです。
それは、「キリストが私達の身代わりとなって、全ての罪の処罰を負ってくださった。」からです。
この「信仰による義」こそ信仰の真髄なのです。ですから、人の行いを誇ることは出来ないのです。
ということは、私たちの誇りは全て取り去られたということです。
では、信じた者は、もはや努力は要らないのでしょうか。確かに救われるための行いは無用です。
しかし、これからは、神のために生きる者として、努力は必要です。ただし、それは、自分が認め
られ、誇りを持つためではありません。イエス様に頼って、本当の努力をするのです。
それは、これまで私たちがしてきたような、自分の力に頼った努力ではありません。クリスチャンの
多くは、「イエス様のために頑張ろう」と、自分の能力に頼って、その中でやろうとします。
しかし、それには限界がありますから、自分が出来ないと思うと、逃げ出します。そういう古い
やり方では、神の栄光にはなりません。
そうではなく、神の全能の力に頼って、どこまでもする上級の信仰の行いです。
C 「空っぽの器に油が満たされる」、と導きを受けたとき、その時まで決して諦めないぞ、
という強い志を持ちました。それは上級信仰のイメージとつながっています。
そして今主は、このメンバーを使って、人間の努力や正しさに頼ってする行いではなく、
神の全能の力に頼って、信じるものに働く全能の神の力がどんなに素晴らしいものかを表したいと
願っておられます。それは、自分たちの能力を超えたものでも、あきらめずに、主に頼って結果を
出す本物の努力です。それは、主がして下さるものですから、私たちの誇りにはなりません。
ですから、「主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」と、学んできたのです。
これこそが、信仰の上級者の心です。
「義人は信仰によって生きれる」のですから、このイメージで、神の栄光を表す上級者の信仰の
生き方をしていきましょう。 |
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