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2009年2月8日







『目の前におられる主に気づかず』


ルカ24章13〜27節





@ 今朝は、エマオの途上の弟子達が、目をさえぎられてイエス様を見ることが出来なかった

理由を考え、信頼が当たり前になっていく信仰について
学びたいと思います。

A さて、二人の弟子がエルサレムを離れてエマオに向かっていました。彼らは11使徒では

なく、信じる群れに加わっていた他の弟子たちでした(33節)。彼らは、イエス様が甦った

という報告を聞いていながらも、エルサレムを離れて行こうとしたのです。そこで、イエス様は、

彼らに近づかれ話しかけられました。イエス様は、エルサレムからの道のりの間、ずっーと、

聖書全体からご自分について解き明かされたのに、彼らの目はさえぎられていて、イエス様だと

気がつかなかったのです。

B では、目がさえぎられていた原因について考えてみましょう。

イエス様を目の前に見ていても、イエス様だとは分からなかった、というのは彼らだけではあり

ませんでした。マグダラのマリヤも、イエス様を目の前にしながら、園の管理人だと思い気づき

ませんでした(ヨハネ20章14)。また、ペテロを始め弟子たちも、ガリラヤの岸辺に立って

おられた方を、イエス様だとは気づきませんでした。(ヨハネ21章4)。

これらに共通するのは、「
イエス様が復活されたことを信じていなかった。」からです。もし、

二人の弟子たちも、イエス様の復活を信じていたなら、イエス様にお会いしたいと思うはずです

から、約束通りエルサレムに留まっていたことでしょう。しかし彼らは、女たちの証言を信じよう

とせず、「死んだ人間が甦るはずがない。」という強い意識を持っていたので、たとえイエス様

が、四度も受難と死と甦りについて話されていたにも関わらず、そのことが理解できなかったの

です。これは自分の考えを優先する人間の罪の結果です。そして、ユダヤ人なら、メシヤ予言は

知っていたはずなのですが、知っている事と心に入れるという事とは違うと言うことが分かり

ます。心に入れていなければ、死んだ人間が甦るはずがないという自分の考えが勝つのです。

そして目が遮られるのです。彼らは、イエス様がパンを裂いて渡されたとき、「私が罪の贖いの

ために、自分の命を与えるのだ。」と言われた主の言葉を思い出して、イエスだと分かった

のです。
心に信仰が入ったからです。彼らは直ぐにエルサレムに戻って行きました。

C 私たちは、命も、環境も、全て創造主によって造られたものです。私たちはこの方によって

生かされている者ですから、創造主に信頼することが、当たり前として生きるべきです。

しかしながら、
私たちは、直ぐに自分勝手な考えに立つ不信仰な心を持っています。そして、

エルサレムから離れようとするのです。しかし、この弱さを認めていくなら、あのザアカイの

ように、大人のプライドを捨てて木に登り、嫌われ者で背が低くても、その弱さをさらけ出して、

イエス様に近づこうとするのです。そしてイエス様が、そんなザアカイに声をかけられたように、

私達を励まし、受け入れてくださるのです。もし創造主がいなかったら、弱さとハンディは敗北と

見られるでしょう。しかし、創造主がおられるのですから、隠す必要はないのです。私たちは

創造主の前に愚か者であり、心の鈍い者でしたが、そんな私を捜し出して救うために、イエス様は

来て下さったのです。この方を単純に信じて、信頼する心が当たり前となって行こうではありま

せんか。
  



    


                                        

  
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