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2009年11月29日





主の手の中で生かされている





使徒22章1〜30節




  

@ 今朝は、「全ての人が、主の手の中で生かされている。」ということについて

考えていきたいと思います。


A さて、私たちクリスチャンは、「主の手の中で生かされている。」ということは、

当たり前のこととして考えていることですが、実際に「日々の生活の中で、全部主の手の中で

導かれている」という生き方をしているかというと、そうではないでしょう。

私たちにとってたった一度の人生を、賢明な生き方であるためには、
「全てのことを正しくご覧に

なり、評価されるお方の中で生きていくこと」が最善なこと
です。使徒行伝の後半で、エルサレム

からローマに導かれていくパウロさんの生き方を見ていくと、

「自分のいのちは神の手の中にある。」という確信と、

「神の導きの中で生きている。」という自覚を持っていたことが分かります。

事実、神は彼を導いておられました。そして、神はあらゆる分野に於いて、人の思いを遙かに超えた

御手を動かしておられました。

B では、パウロの歩みから、神様の御手を見てみましょう。

パウロがエルサレムからローマへ行くまで、その心中にあったものは、彼がエルサレムに向かって

いく途中に、エペソの長老たちにその心中を吐露しています。「私が自分の走るべき行程を走り

尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を果たし終えることが出来るなら、

私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」と。パウロは聖霊によって、エルサレムに行くと

しみと縄目が待っている」と行く先々で言われていました。しかし、それでも「エルサレムに

行って証をしなければならない」との決心は揺るぎませんでした。なぜなら、「エルサレムに

行くのだと、心を縛られていたからです。」それは御霊にとらえられていた心の表現であり、

エルサレム行きをやめたら自分の任務を果たし終えることは出来ないと考えたからです。

彼の心を駆り立てていたものは、「自分のいのちと生涯は、神のためにあり、これを全うしたなら、

たとい自分のいのちを失っても惜しいとは思わない。」と考えていたことです。

こうして彼はエルサレムに行きましたが、案の定、御霊の示しの通りに捕らえられてしまいました。

しかし、ユダヤの指導者たちに証しする機会を与えられたのです。また、ローマの千人隊長を

導びいておられた主は、パウロを安全にカイザリヤに護送するようにされ、500人もの兵を出した

のです。カイザリヤでは、総督やアグリッパ王にキリストを証しするチャンスが与えられました。

そして、パウロの命を狙うユダヤ人の手から守られて、ローマへと護送されていったのです。

これらは全て、パウロが任務を全うするために、神がしてくださったのです。

C 私たちの人生は、パウロの場合と同じように、必ず悪魔の邪魔が入いり、さまざまな困難に

遭遇します。しかし、それでもキリストを証しする任務は妨げられません。なぜなら、主の守りが

悪魔の働き以上にあるからです。そして、
私たちが任務をなし終えることができたなら、

その働きは永遠に覚えられるのです。なぜなら、私たちの主は、永遠に生きておられ、私たちの

働きも永遠に残るからです。
ですから、私たちが心を定め、逃げずに任務に当たるなら、

主は必ずこの任務を成功させ、無駄な労力は一つもないことが分かります。なぜなら、全ての人が、

「主の手の中で生かされているから」です。この真実の中で、大胆に生きていきましょう。

                                        

  
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