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2009年11月22日





信じたとき、聖霊を受けましたか?





使徒19章1〜7節




  

@ 今朝は、パウロがエペソの信者に会った時「信じたとき、聖霊を受けましたか。」

問いかけた意味を考えたいと思います。


A さて、パウロの質問に対して、エペソのクリスチャンたちは、

「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えました。

しかし今日、このように答えるクリスチャンは一人もいません。
もしそのように答えたなら、

自分が救われていないことになるから
です。というのは、私たちの内側には御霊の働きがあり、

それを味わっているからです。ところが、率直に言って、エペソの教会の姿は、

今日の私たちの教会と世界の教会の姿でもあるのです。なぜなら、力不足を覚えたクリスチャンが

多いからです。だから、このパウロの質問は今、私たちに問いかけられているものです。


B では、何故パウロはそのような質問をしたのでしょうか。それは、パウロがエペソの信者たちに

会った時、キリストを信じているにしては、何かもの足りないものを感じたからです。

それは聖霊の働かれて顕著な姿を見ることが出来なかったからです。

そこで彼は、「どんなバプテスマを受けましたか?」と尋ねた時、

彼らの答えが「ヨハネのバプテスマです。」と聞き、イエスの御名によってバプテスマを

授けました。そして、手を置いて祈ったとき、聖霊の賜物が下り、異言によって語り、

また預言をしたのです。実は、このことはエペソの信者だけでなく、私たちも同じ質問を受けること

でしょう。なぜなら、信じたときに目に見える聖霊の現れは、経験していないからです。

ですから、「聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えるべきなのです。

確かに、「内住の御霊を受けている」ことは確かです。しかし
、パウロの問いかけは、内住の御霊の

ことではなく、目に見える賜物の伴った聖霊のバプテスマのことです。
このことは、パウロさんが

あえて、浸礼の後に、手を置いて祈っていることから分かります。そして、彼らは、異言を語り、

預言をしました。これは、使徒行伝2章の聖霊のバプテスマのことでした。

この聖霊のバプテスマは、イエスの御名によってバプテスマを受ければ、自動的に授けられるもので

はありません。なぜなら、パウロさんが、祈ってから授けられているものだからです。私たちも、

イエスの御名によってバプテスマを受けています。しかし、聖霊の賜物を受けるために祈られて

いません。このように祈られていない教会と、信者は、一般的です。ですから、事実、聖霊のバプテ

スマを受けられた牧師と話したとき、エペソの人々と同じように、「聞きもしませんでした。」と

いう思いが心の中にこみ上げてきました。しかし、私たちは、そのようなことばを口には出したく

ありません。内住の御霊があるという所に立っているからです。これが、パウロの言わんとする

真意を理解できない者として曇らされている原因です。パウロの真意は、賜物としての聖霊、即ち、

聖霊のバプテスマの賜物に焦点が置かれていたのです。しかし現在は、5節―主イエスの御名に

よってバプテスマを受けることで終わっています。ただ、歴史を紐解くならば、ある時代時代に、

聖霊のバプテスマを受け、賜物をいただいた人々の御霊による著しい伝道の働きがありました。

ですから、今の時代にも私たちは、聖霊の賜物の必要を感じます。と言うのは、「自分たちの命は、

進化論で説明される偶然の命ではない」と分かっている未信者の多くの人々も、「創造主によって

自分の命が造られた。」とは信じられない、と言う人々が一杯いるからです。信じられない理由は、

創造主が目に見えないからです。彼らは中間状態の中でウロウロしているのです。そこで私たちに

必要なのは、創造主の存在がハッキリ分かる方法で証ししていくことです。具体的な聖霊の働きが

起こってきたなら、心を開き率直に信じる人々が起こされ、リバイバルが起こってくるのでは

ないでしょうか。私たちもこれを味わい、伝えていきたいのです。

C 聖霊のバプテスマを受ける備えとは何でしょうか。それは、「御霊の導かれるままに従っていく

従順な信仰」です。パウロは、多くの人に「エルサレムに行くなら、苦しみと縄目が待っている。」

と言われていました。しかしパウロは、「主イエスのためなら死さえも覚悟している」と言って、

自分の身を守ろうとせず、御霊に従ったのです。自分の判断や人の判断ではなく、
聖霊の判断に

聞き従うという砕かれた心
が無くては、たとえ聖霊の賜物を受けたとしても神の御心を実行に

移すことは出来ません。それは、ただ自分に与えられた賜物を誇り、何者であるかのように誇り、

ただ傲慢になってしまうだけです。それなら、何の意味もなくなってしまいます。

私たちは、
自分の意志という主体性を以て御霊の導きのままに行って行くのです。主はそのような

者を用いて下さるからです。ピリポさんのようなイメージを持って下さい。

そして賜物をいただいて、伝道の突破口を開いていきましょう。

                                        

  
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