『信仰の土台』
マタイ6章1節〜4節
@ 今朝は、信仰の土台について学びたいと思います。
A さて、5章から山上の垂訓のメッセージが語られています。ここで語られている内容は、
とてもレベルが高く、罪人の私たちがこのレベルで歩むことは非常に難しいことです。
たとい律法の下にあるユダヤ人であっても、このレベルには立てないでしょう。なぜなら、
律法学者、パリサイ人の義に勝らなければ、天の御国に入れないからです。ということは、律法
学者、パリサイ人でも駄目と言うことなら、肉の思いを完全に無くすことのできない私たちは、
皆揃って地獄だ、と言われているようなものです。これは、聖なる創り主にしかできない水準
です。ところが、イエス様はこれらのことを、一般の群衆に語られたのです。では、これを
私たちはどのように理解したらよいのでしょうか?
B ここで、イエス様の真意について考えてみましょう。イエス様は言われました。「だれでも
情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と。自分の心に自然とわき
起こって来る思いさえもダメと言われたなら、私たちは生きてはいけません。しかし、これが
創り主の聖であり義なのです。もし主の考えに照らされたなら、全人類は、完璧に抹殺されるだけ
です。しかし、イエス様はそういう罪人たちを救ってくださったのです。では、こんな恵みにあず
かった私たちなら、「そうしなければいけないから・・・」というような義務感でやろうとするの
ではなく、平安の中で、「それが主の御心なのだから、その方向に心を向けていきたい。」と、
霊の心で行うようにするはずです。即ち、救われた者であるなら、少しでも御心に近づきたいと
思いますから、「そのようにやって行きたい。」という前向きな心が出てくるはずです。
何故なら、「主に贖われた者は、主の前に生きている者ですから、主が喜んで下さればそれで
いいんだ。」と思えるからです。ところが、もしクリスチャンが、人前で生きることに捕らわれた
なら、主よりも自分が中心になって生きるようになり、隠れた所で見ておられる方の御心に従って
生きることが出来なくなってしまいます。しかし、私たちの命は自分で造ったところは一つもあり
ません。全て創り主によって造られたものです。ならば、私の命は主のものです。それは、自分の
体に手を置いてみると、一目瞭然のことです。ですから私たちは、主の御心であるなら自分の思い
に関係なく、そうして行こうという心が出てくるはずです。この心こそイエス様が山頂の垂訓で
求めておられたものです。
C 私たちは、自分の命は創り主のものであることが分かりました。ですから、主人公は自分では
なく、創り主ですから、このお方にすべてを委ねて、従っていけばいいのです。これこそ、
ガラテヤ書2章20節「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きている
のではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」の
心であり生き方です。それは、自分が主人公になった生き方ではなく、イエス様が主人公になった
生き方です。これを私たちの教会の土台としたいのです。そして、主がすべてを成し遂げて
くださったことを証していきましょう。 |
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