教 会 案 内 牧 師 紹 介 定 期 集 会 特 別 集 会
定 期 メ ッセージ  シ ョ ー ト メッセージ 福 音 の 話
行   事 教 会 新 聞 掲 示 板 リ ン ク 事 務 室



2008年8月17日







『イエス様の憤り』




ヨハネ11章1節〜44節






@ 今朝は、主がラザロを甦らせられた時に、霊の憤りを覚えられた理由を考えて行きたい

思います。

A さて、イエス様は、ラザロの病を知らされた時、一言「癒される。」と言われたなら、

彼は、死ぬことはなかったでしょう。しかし、あえて、二日もとどまられ、ラザロが死んだ後で

出かけられました。それは、神の栄光を現わすためであり、イエス様ご自身が神の御子である

ことを、人々に信じさせるためでした。ところが、マリヤたちの涙を見られて、主は、霊の憤りを

覚え、心の動揺を感じられたのです。

B では、何故イエス様が、霊の憤りを覚え、腹ただしく感じられたのか見てみましょう。

それには、二つの観点から考えられます。先ず、第一の観点は、イエス様が到着したとき、

マリヤを始め、人々はラザロの死を悲しみ、死は、あってはならないものとして嘆きました。

それに対し、イエス様は、あえてこれから、死を選択しているご自分の死を思い、当然のように

「死なせないでおけなかったのか」という彼らの批判的なことばに、憤りを感じたのです。また、

もう一つの観点は、死んで臭くなったラザロをも、甦らせることが出来る神の子であること

を明らかにするために来たのですから、マルタを初め、人々は、そのことを信じることに制限を

持ち、信じようとしなかった彼らの閉じられた信仰に対する憤りではないでしょうか。

しかし、マルタは、「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っています。」

と言った信仰の理解は、立派なものと言えます。ところが、イエス様への信仰は、どこまでも

制限のないものでなくてはいけないのです。それは、今でも甦るという信仰でなくてはなら

なかったのです。彼女たちの「知っている」ということは、何の力にもならなかったのです。

というのは、イエス様が甦らそうとして墓の石を取りのけるように言われたとき、マルタは、

「もう四日にもなっているのですから、臭くなっています。」と、当然のように否定したから

です。イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも

生きるのです。」と言われたことばをそのまま信じるなら、たとい墓が封印されており、

死んで臭くなっていようとも、主は生き返らせることが出来るという信仰を求められておられる

のです。
主の憤りは、自分の知識の中でしか考えようとしなかった、マルタの制限した信仰

だったのです。マルタは、どこまでも自分の我を砕き、自分の考えの領域を砕いていかねばなり

ませんでした。
自分勝手に、信じる世界を狭くし、自分を守ろうとしていては、主が求められて

いる信仰を働かせていくことが出来ないからです。
全能者の前に立ったら、私たちは、

「そこまで求められたとしても・・・」と弁解しても、一つも通りません。

もし、イエス様の言葉を聞いても、信仰によって反応できなければ、去って行くしかないのです。

私たちは、主を無制限に信じることを求められているのです。  




    


                                        

  
 *メニュー
      * 教 会 案 内
      * 牧 師 紹 介
      * 定 期 集 会
      * 特 別 集 会
      * 定期メッセージ
      * ショートメッセージ
      * 福 音 の 話
      * 行       事
      * 教 会 新 聞
      * 掲  示  板
      * リ  ン  ク
      * 事  務  室