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2008年3月2日






『信仰の筋を通して』
                                    



第Uコリント5章5節〜18節





       

@ 今朝は、一途な信仰に立ち、信仰の筋を通して歩んでいくことを学んで行きたいと

思います。


A さて、私たちは日常生活において、さまざまな場面に立たされますが、その判断基準を

どこに置いていくかが大事な問題です。私たちはクリスチャンとして、信仰の筋に立った

判断をしたいと思っていますが、右に左に揺れてしまうことも現実です。世の考え方や

価値観の方にブレルからです。そこで悩みの中に入っていくのです。しかし、私たちを信仰

の原点(筋)に立つよう戻してくれるのが御言です。この聖書から、使徒パウロは、決して

ブレルことなく、立つべき所に立って判断するように勧めています。「キリストに在って

生きる」ということが徹底しているからです。このパウロの生き方を、私たちも現実の生活

の中でしていきたいのです。


B では、信仰の筋を通して生きていく生き方について考えてみましょう。まず、私たちの

存在は創造主によるものであることを確認しなければなりません。人間は、ロボットを造る

とき、人間に役立つロボットを造ろうとしますが、ましてや私たちの命の創り主は、ご自分

の役に立つ者として人間を完全に創りました。ですから、私たちは創造主の役立つ生き方を

していくべきであり、その生き方は、創造主の考えにそった生き方をしていくことです。

言い換えるなら、いつも創造主の目から見た判断をしていくことです。ところが、社会に

出て行くと、世の人の価値観とその判断に合わせてやって行こうとしてしまい、自分の立つ

べき所を見失ってしまうのです。人の目、人の評判を気にして自分を守るからです。そこで

パウロは言います。

「キリストが全ての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにでは

なく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」と。

このパウロの生き方の根底にあるものは、「私は、キリスト共に死んで、もはや、私が

生きるのではない。」(ガラテヤ220節)という信仰です。それは、自分は主に在って生きて

いるのであって、自分で自分を守る必要は無いと云うことです。ですから、全て創り主の目

から見た判断をしていくということです。即ち、自分のために生きていないので、パウロの

「念願とするところは、いつも主に喜ばれること。」でした。これがパウロさんの生き方の

土台となっています。この「私が生きているのではない。」という心こそ、パウロの生き方

の真髄です。私たちもこの心を貫いていくなら、信仰の筋を通した生き方ができるのです。

C 
私たちの新しい生き方は、創造主の目から見た判断で信仰の筋を通していくことです。

そして、私たちは、この世にあってもキリストだけに信頼し、キリストが成し遂げてくだ

さることを味わい、証していくのです。これこそ、聖書全体で語られているメッセージです。

ですから、これで良かったという事を味わい、この一途な信仰を貫いて行きましょう。



    


                                        

  
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