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2007年9月9日




    『ポジティブな心で』




マタイ5章27節〜30節





@ 今朝は、黄金律と言われる山上の垂訓の真意について学びたいと思います。

A さて、山上の垂訓を読んで行く時、これを否定する人は誰もいないでしょう。

その内容は、黄金律と言われているぐらいに、非常にモラルの高い教えとして認められている

からです。それは、モーセの律法についての解き明かしであり、律法学者やパリサイ人の義に

まさる義を示されたものです。ですから、これこそ創造主の義の基準であり、律法の真髄なの

です。しかし、この基準を肯定的に受け止めた場合、それに応じれる人間は一人もおりません。

なぜなら、右目、右手を切り取らずに済む人間は、一人もいないからです。ところがイエス様は、

「律法を廃棄するためではなく、成就するために来た。」、と言われたのです。だから、全ての

人間は、手足どころか、心も、頭も、全身切り取らなければなりません。それでは、私たちは

御ことばの通り従うことが不可能になってしまいます。

では、どのように御ことばを理解したらいいのでしょうか?


B では、その真理に基づいて、27節から30節をみてみましょう。『姦淫してはならない。』

というモーセの律法の真意をイエス様は解き明かし、「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、

すでに心の中で姦淫を犯したのです。」と。単に表面的な姦淫という行為を行うことだけが罪

なのではなく、人には見えなくても、心の中で情欲を持って見る事それ自体が罪だと言って

おられるのです。これこそが律法を与えられた創造主の真意であり、外側だけを美しく飾れば、

それで律法を守っていると考えていたパリサイ人の考えを否定し、「パリサイ人の義に勝らな

ければ神の国に入れない。」といわれたイエス様の教えなのです。ですから、「もし右の目が

つまずかせるなら、それをえぐり出して捨ててしまえ。からだ全体がゲヘナ(地獄)に投げ込ま

れるよりは幸いである。」と言われたのです。しかし、福音書を読めば読むほど、この創造主の

基準に照らし出された自分は、呪われている者であることが分かり、両目だけではなく、自分と

いう存在そのものさえ否定しなければならない者だと知らされます。そこへ畳み込むように、

悪魔も「聖書の御言通りにしなくていいのか・・・」と脅してきます。

 ところが今、聖書に書いてある通りに実践していこうとしたら、右の目をえぐり、右の手を

切らなければなりません。ところが、ここに聖書の真理があるのです。それは、「キリストが

律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。」即ち、私たちの罪の原点

が、イエス・キリストの十字架によって贖われたので、手足を切ることが天の御国に入る条件

ではなく、罪の償いをして下さったイエス・キリストを信じることなのです。このことを解き

明かしているのがパウロの手紙です。ですから今、山上の垂訓を読むとき、律法的な義務感で

読むのではなく、すでに御国に入れられたものとして前向きに理解し、適用していけばいいの

です。

C 私たちは、イエス様一本、即ち、創造主の御心を基準とし、自分の心を明け渡して従って

行くべきだと教えられています。
創造主の基準とは、「神の国とその義とをまず第一に求める」

一途な生き方です。それは、主の言われることをポジティブな心で、「やりたいからやる」と

霊で決断して従って行くことです。それは、あくまでも能動的なものです。受身だと、叱られ

たりするとすぐにクシャと来ます。だから、ポジティブな決断をしていくべきです。それは

聖霊の助けによって決断して始めていくことです。









    


                                        

  
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