@ 今朝は、クリスチャンは「キリストをその身に着た者であること」、そしてその生き方は、
先ず創造主との縦の関係に確信を持ち、そこに堅く立った生き方であることを学びたいと思い
ます。
A さて、ガラテヤの教会は、パウロが伝道した異邦人の地です。ですから、教会に集っている
者たちは殆んどが異邦人たちでした。ところが、その異邦人にも律法の影響が入って来て、割礼を
受けさせようとする者たちが忍び込んできたのです。それによって彼らは、救われる為には律法の
行いがいるかのように思わされ、それを求めて行こうとしていました。それに対してパウロは、
「もし割礼を受けるなら、再び律法の中に閉じ込められ、奴隷となってしまうのだ。」と警告して
います。さらに、イエス・キリストを信じた者は、「信仰によって義と認められるのであり、
キリストをその身に着た」のですから、「義とされた者は信仰によって生きる」のです、と語って
います。
B では、「律法から解放され、キリストをその身に着た」とはどういう事なのか考えて見ま
しょう。「キリストをその身に着る」とは、自分はキリストと共によみがえったことを意味して
います。この客観的事実が自分のものであると信じ、そこに安住できる生き方こそ本来のクリス
チャンの生き方です。それは、ロマ書14章7,8節の御言にあるように、「もはや自分のために
生きる者はなく、自分のために死ぬ者もいない。ただキリストのために生き、キリストのために
死ぬ。」という生き方です。この心を持って生きていくなら、現実のもろもろの煩いからも解放
されていくでしょう。しかし、「私は、現実によみがえっていないから、そんな生き方はできない」
と言うなら、聖書のみことばは空しいものになってしまいます。クリスチャンの生き方は、
「義人は信仰によって生きる」とありますから、自分の感情や主観に立つのではなく、御言を
信じて受け入れ、その通りの生き方をしていくことです。それは、まず神の国と神の義を第一と
する縦の関係を大切にしていくことであり、主に頼ることです。
ところが、私たちは、現実の生活に利害が絡んでいますので、創造主との縦の関係より、
人間的な横の関係を大事にしているのです。そして、人に心を向けている間に、創り主に心を
向ける思いは、だんだん薄くなっていくのです。この世に心を向けることこそ、律法主義そのもの
です。特に私たち日本人は、対人関係を重視します。これこそ、日本人にとっての律法主義です。
ヨコの関係の気配りばかりを考えて、だんだん創造主と自分との縦の関係が希薄になっていきます。
ですから、直接主から慰められるより、いつも人に受け入れられ、人に助けてもらい、人に慰めて
もらうことばかり考えて・・・人との関係で生きているのです。それは、ギブ&テイクの人間的な
生き方で、創り主に信頼する生き方ではありません。それはフィリオスの愛で、疲れてしまうだけ
です。しかし、創造主との縦のパイプが太くなると、横の関係はただ、純粋に助けるアガペーの
愛になるのです。自分の心は、創り主によって平安があるからです。この生き方に立つことが、
律法から解放され、キリストを身に着た生き方なのです。
C 私たちは今、創造主との関係が間違いないものだという確信が与えられています。このパイプ
が強くなれば信頼も強くなって、「創造主が助けてくれるからいいんだ。」となってきます。
すると、ヨコの関係に捕らわれなくなって律法から解放され、聖書の客観的事実を信じて歩んで
いけるようになります。実に、創造主が私たちを律法に閉じ込められたのは、このヨコの関係で
は、生きていけないことを味わわせるためだったのです。私たちは縦のパイプを強くし、キリ
ストをその身に着て、信仰に堅く立って歩んでいきましょう。
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