@ 今朝は、私たちは、「私たちを仕組まれた創造主のために存在している者」であり、この方に
対して生きていくことを学びたいと思います。
A さて、イエス様は、夕方になって、向こう岸に渡るために、弟子たちと共に舟に乗って出掛けら
れました。ところが、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになりました。
ところがイエス様だけは、ともの方で眠っておられたのです。弟子たちは恐怖に襲われて言いまし
た。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」。イエス様は風を静めら
れると、彼らに対して言われました。
「どうしてそんなにこわがるのですか?信仰がないのは、どうしたことです。」と。
B そこで、イエス様が弟子たちに恐怖心をもったことは、不信仰であると言われた意味を
考えてみましょう。弟子たちは、イエス様が風を静められたのを見て、「いったいこの方はどういう
方なのだろう。」と驚きました。しかしイエス様は、万物を創られた方ですから、(コロサイ1章16、17)
湖を静めることなど当たり前の事でした。そのイエス様が共に居られたのですから、大波を
かぶったとしても、溺れ死ぬはずがありません。ところが弟子たちは、突風と大波に恐れおののき、
その恐怖に満ちた心をイエス様にぶっつけ、「何とも思われないのですか!」と攻撃的に叫んだ
のです。ここで弟子たちは、恐れを感じて、自分中心になり不信仰を暴露したのです。これは、
自分の気分次第で、イエス様への心をコロコロ変えてしまうことです。こうして、「自分がそう思わ
ないから従えない。」、「自分はそう出来ないから教会に行けない。」と、自分の思い通りにならなけれ
ば、創り主に逆らうのです。しかし、私たちは、創造主によって仕組まれ、生かされている者では
ありませんか。創造主は、私たちのために存在しているのですか。いいえ。私たちが創造主のために
生かされている存在なのです。ですから、私たちを創られた方に文句を言ったり、背を向けること
など出来ない者です。ところが、それを当たり前のようにやってしまっています。「怖いから仕方が
ない。」と。これは通用しません。怖がるのは、創り主がいらっしゃる事を無視するからです。
創造主は、私たちを、愛を持って創られたのですから、どのようなことが起こっても、私たちを
愛し、守ってくださいます。ですから、この創り主に任せ、この方を信じ、この方を中心にして
考えていけばいいんです。それはまた、自分の我を通す生き方からサヨナラすることです。
イエス様は弟子たちに、この心を持って信頼してくることを願われていたのです。
C 創造主が私たちのために居られるのではなく、私たちが創造主のためにいるのです。ここに
自分の生きる焦点をハッキリとさせていくならば、私たちは、自分の人生を有効に生かすことが
出来ます。「創り主の役に立ちたい。」と願い、新しい分野にも恐れず挑戦してやっていくように
なり、そこに主の助けを味わうからです。ですから、むしろ怖がってはいけないのです。主が傍に
いて下さるからです。イエス様は、この事を語りかけてくださっているのです。
平安と安心を持って、主のために生きていきましょう。
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