@ 今朝は、マリヤの信仰について考え、創造主に受け入れられる信仰の心について
学びたいと思います。
A さて、御使いは、マリヤの所に来て言われました。「あなたはみごもって、男の子を
へきれき
産みます。」と。処女であるマリヤにとっては青天の霹靂でした。しかし、「神にとって
不可能なことは一つもありません。」と言われたとき、答えて言いました。「ほんとうに、
私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と。
未婚の者が身ごもるということは、特に律法の下にあるユダヤにおいては不名誉極まりなく、
何のメリットもありません。にもかかわらず、マリヤは素直に受け入れたのです。この
素直さこそ、私たちの信仰の原点です。
B では、マリヤの言葉から、信仰の原点である素直さについて考えてみましょう。
まず彼女は自分のことを、「主のはしため」と言い、罪人に過ぎない者だと認めています。
この心があるからこそ、御使いの言葉を素直に受け入れることが出来たのです。と言うのは、
自分を罪人と認めた人は、死んだ者ということですから、死んだ人間は何も出来ません、
ただ全能主である神に委ねて生きていくだけです。この信仰の心がマリヤあったからこそ、
彼女は、自分自身を不利な状況下に置くことが分かっていても、御使いの言葉をそのまま
受け入れたのです。マリヤと私たちとの違いがここにあります。私たちは、何とか自分の
考え、自分の力でやって喜ばれようとしています。すると自分にとって不利なことからは、
逃げるのです。しかしそれは、信じた当初からそうだったという訳ではありません。
私たちも、信じた当初は、罪人の私をそのまま救ってくださるイエス様に感謝して、
「イエス様の言われる通りに従っていこう」と思っていました。
ところが、その思いが、「やらねばならない。」、「やって行くべきだ。」という方向に
向かってしまったのです。その結果、どうなって行ったでしょう。クリスチャンになったの
だから、「アーしなければ、コーしなければ」と、ゴチャゴチャ考えて暗闇の中に入り、
律法の中に自分を追い込んでクリシミチャン(苦しみちゃん)になってしまいました。
実は、この律法を課す生き方は、すべて悪魔のダマシです。悪魔は、「自分で善悪を
判断して神のようになれるよ。」とアダムとエバを誘惑しました。彼らも「神のようになり
たい」と思って悪魔の言葉に従い罪を犯したのです。この悪魔のダマシは退けなければなり
ません。そのためにはまず、自分自身が罪人であり、自分の力では何も出来ない者だという
ことをハッキリと認めることです。それが分かれば、自分で背負って行く発想は捨て、
「イエス様にやってもらう」という発想に変えていくのです。この明け渡された心に、
聖霊の働きが起こってくるからです。
C 私たちは罪人ですから、キリストと共に死にました。ですから、キリストと共に生きて
いくことが出来るのです。それはキリストの考えに立って生きて行くことです。マリヤも、
「神にとって不可能なことは一つもありません。」との御言を単純に信じ、神の側に立った
のです。私たちも、自分の考えや打算に立たず、主の側に立ってそのまま受けて行きま
しょう。
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