@ 今朝は、41節の御言−「使徒たちは、御名のために辱しめられるに値する者とされたこと
を喜びながら、議会から出て行った。」とある言葉を心を留めながら、学んでいきたいと思い
ます。
A さて、私たちは、辱しめられると思ったとき、「どうなるんだろうか?」とビビッて
しまい逃げ出したくなります。ところが、使徒たちは「喜んだ。」、とあります。彼らの、この
喜べる信仰に、前向きな力強さを感じます。この力強さを学びながら、自分たちも同じような
生き方をしたいと、使徒行伝を読むたびに思いますし、その記録を見ると励まされます。
ですから、今日もこういうことが起こってくることを証して行きたいと願うのです。
B では、使徒たちがなぜ苦難さえも喜んでいったのかを考えてみましょう。
ぼうとく
ユダヤ人は、「神を冒涜する者を殺すことは神に奉仕することだ。」と考えて、イエス様を
十字架につけて殺しました。ところが使徒たちはそのユダヤ人たちに対して、「この方は神の子
なのです。なのにあなた方は神の子を十字架にかけて殺してしまいました。しかし、神はこの方
を甦らせました。それは、メシヤが死につながれることはありえないからです。」と言って、
自分たちがその証人であり、聖霊もそのことの証人であると証しました。そして、「自分たちが
見たこと聞いたことを話さないわけにはいかない。」と大胆に言ったのです。これは、完璧に
ユダヤ人に対して喧嘩を売っているようなものです。ですから、ユダヤ人たちはこれを聞いて
怒り狂い、使徒たちを殺そうとしました。何故なら、彼らにとって、神ということばの中には
聖霊が存在していましたから、聖霊が証人だと言われると、そのことの重大さを理解し、恐怖を
覚えたからです。そして、足なえがいやされた奇蹟を見て、言い逃れが出来ませんでした。
そこで律法学者ガマリエルは議員たちに向かって言いました。「もし人から出たものなら自滅
してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、彼らを滅ぼすことは出来ないばかり
か、神に敵対することになってしまうでしょう。」と。この説得によって、使徒たちは鞭で打
たれ釈放されました。ところが、使徒たちはこのように辱しめられムチ打たれても、喜んだの
です。それは使徒たちが、気骨があったからではありません。彼らはイエス様を見捨てて逃げて
行った者たちですが、キリストの復活と聖霊の事実によって確信を持ち喜んだからです。
C 私たちがキリストの証をしていくことは、大勢を占めている進化論に対して、真理をぶつ
けることですから、私たちも同じように反発を受けるでしょう。しかし、創造主が私たちの命を
創られたという事実は真理ですから、彼らは、神に敵対することにもなります。そして、神から
出たものは、滅ぼすことは出来ません。私たちはこの確信に立って主の証を立てていくことが
できるはずです。そして、助け主である聖霊様もその証人となってくださるのですから、
すばらしい証が伴うのです。このように、私たちも使徒たちと同じように、大胆に証していける
のです。この事実を味わって行きましょう。 |