みことば
『御言の二面性』
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聖書の中には、正反対の真理がたくさん出てきます。例えば、
・神の選びと人間の責任(使13:48・使13:46)、
・キリストは神であり人間である。(第Uペテロ1:1・第Tヨハネ4:2)
・律法の廃止とキリストの律法を全うする。(ヘブル7:18・ガラ6:2)
・肉と御霊がある(ガラ5:17)
・主に委ねる部分と自分がする部分(詩37:5・第Uペテ1:5)
・敵を愛することと、父・母さえ憎むこと(ルカ6:27・ルカ14:26)
・見て見ぬ振りをする神と見て見ぬ振りの出来ない神。(ヨセフ売られる・罪人をあわれむ)
・さばくために来たのでないキリストとさばくために来たキリスト(ヨハネ3:17・9:39)
このように聖書には、正反対と思われる記事が一杯載せられています。そこで過去の多くの聖書学者
は、聖書の統一した理解を得ようと、いろいろな神学を打ち立てました。そのため、人それぞれの
立場から見た聖書解釈がたくさん出てきたのです。ある人は右より、ある人は左より、ある人は、
ちゅうよう
その中庸。そして今日、人の数程のいろいろな考え方があります。キリストの再臨も、患難期前、
患難期後、千年王国後などと、まちまちです。では私たちは、どのように判断すべきでしょうか。
ある人はバランスを取るべきといいます。それも、人間の知恵によって聖書を理解したいと願う、
罪人の知恵の欲望だと思います。そうする考え方は全て、自分が主人になっています。自分の感情に
あった解釈は受け入れるが、自分が、そうと思わなければ、聞いても無視する罪人の身勝手が働いて
いると思います。私たちは、両面性を持つ聖書の言葉も、へり下って神の言葉として受け留めていく
べきです。そうしないと、自分にあったメッセージしか聞こうとしないわがままなクリスチャンに
なってしまうからです。「この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵による。」
(第Tコリント1:21) ですから、自分がそうだと思わない言葉も、その通り、へり下って受け
取っていくべきです。そこにへり下りが生まれてくるからです。これが罪人に求められる神のメッ
セージでしょう。
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