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          2005年7月3日



「キリストで生きる」

コロサイ2章6〜11節




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今朝は、「キリストにあって歩む」とは、どういうことなのかを、具体的に学び、 私たち自身

が、その歩みの中に入って行く決心をしたいと思います。



A さて、パウロはコロサイの人々に、「あなたがたは、キリストにあって死んでいるのですから、

地上のものを求めず、上にあるものを求めなさい。キリストの中に根ざし、建てられ、信仰を堅くし

なさい。」
と語っています。それは、「キリストにあって歩む」ためです。

言い換えれば、
「キリストで生きる」ということです。では、「キリストで生きる」とは、具体的に

どういうことでしょうか。このことをはっきりと理解していく必要があると思います。 その事こそ

が、13年前の8月に語られたメッセージの、「空っぽの器に油が満たされる。」の結論であると

思われるからです。


B では、「キリストで生きる」とはどういうことでしょうか。11節に、「肉の体を脱ぎ捨て、

キリストの割礼を受けた。」とあります。割礼とは、ユダヤ人社会では習慣として行われてきた

もので、肉体につけられる印です。しかしパウロは言います。「外見上の体の割礼が割礼なのでは

ありません。御霊による、心の割礼こそ割礼です。」とあるように、キリストの割礼とは、私たちの

心の中に入れてくださった御霊のことです。このように、私たちの心の奥底に御霊が住んで下

さったのですから、御霊の考えで生きていけばいいのです。ところが、肉の思いが心を占めている

と、さまざまな情報を肉で考え、肉で反応します。これは未信者と同じ反応の仕方です。しかし、

肉の思いが空っぽにされると、さまざまな情報に対して、肉の影響を受けませんから、直ちに霊で

反応します。だから、「肉の体を脱ぎ捨て」とあるのです。ところが、
「御霊で生き、御霊で行動

していこう。」と肉で決心すると、すぐに、「それは具体的にどう行動していくことかな?」と、

肉で一生懸命考えてしまいます。しかし霊的な事を肉(頭)で一生懸命考えても、答えは出てき

ません。人間の知恵や思考では、神の知恵を理解することは出来ないからです。 ですから、

「どうして?」と考える肉の思いを退けて、スパンと心の奥に入れるのです。
そうすると始めて、

心の奥に住まわれる御霊が反応し、霊で分かってくるのです。それは、何も考えずに洗脳されると

いうことではありません。私たちは生まれながらにして、肉で考えて判断しようとする習慣が身に

ついていますが、それは罪に支配された思考で、何の益にもなりませんでした。しかし、今は、

私たちは霊で考えるのです。ですからそれは、洗脳ではありません。考える基を変えるのです。

するとそこに、霊の行動が起こってきます。行いは信仰によって働くからです。
こうして肉の思い

を空っぽにし、霊で生きていく時に、「キリストで生きる歩み」が始まってくるのです。


C 今、神様は私たちに、「キリストにあって歩みなさい。助け主である御霊様が心の中に居られ、

助けてくださるから。」と、私たちの決心を促しておられます。そのために、肉(古い人)を脱ぎ

捨てると決心するのです。私たちが、肉を見切って、霊で歩み始めたとき、キリストにあって

歩むことが分ってきます。ですから、「イエス様の言われるとおりにしていきます。」と決心

して、いきましょう。

                                    



     
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