「肉の芯を砕く」
第Tコリント 3章1〜17節
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@今朝は、肉の芯を砕き、自我に留まらず、キリストに在って生きていく生き方について学びたい
と思います。
A さて、この13年間の取り扱いと学びは、私たちが空っぽの器になるためのものでした。
それは、肉の思いが砕かれて、神の御言をそのまま、心の奥底に入れるようになるためです。
実は、コリントの教会の人々も、イエス様に救われた人々の集まりだったのですが、その心は肉の
思いで覆われていました。ですからパウロは、肉に属する人に対するようにしか話ができない。
と嘆いています。そして、手紙に記されている問題は全て肉の問題であり、コリントの人々が
いかに肉的であったのか分かります。ですから、彼らに対しては、堅い食物は無理だったのです。
B では、堅い食物を与えられる人とはどのような人なのでしょうか。私たちがはじめて福音を
聞いたとき、自分の中に住む罪について知りました。その罪とは、アダムから受け継いだ原罪です。
それは、ウソをつくとか、人の物をくすねるとか、という表面的な罪ではありません。その罪は
パウロがロマ書で告白しているように、「自分がしたいと思う善を行わないで、したくない悪を
行ってしまうことです。それは、自分の内に住みついている罪が原因です。」と言った、アダムから
受け継いだ原罪のことです。即ちこの原罪こそ砕かれていかなければならない肉の元凶です。
私たちはこの罪を持ったままでは、神の裁きを受けるだけですから、その贖いをしてくださった、
イエス様を信じました。しかし、それだけではまだ幼子です。この罪の芯を砕いたか、どうかが
問題です。多くの場合、罪を認めるだけで、自我を砕かず、温存している場合が多いのです。
ですから、まだ、強く怒られたりすると、ムカついて反発し、その本意を心に入れようとしません。
しかし、砕かれた人は、イエス様と共に死んだ者として、自分の肉にはこだわりません。
だから自我を引き、言われた言葉をそのまま心に入れます。だから、心から「すみません。」と
謝れるのです。そして、その顔には平安が表れます。肉の思いに、とらわれていませんから、
言われたことをそのまま聞いて、その通りにやっていけるのです。ですから、そういう人は、
霊で物事を考えますから、堅い食物も与えられるのです。
C このように、私たちの朽ちていく肉には価値がありませんから、肉にすがったり、肉にとらわ
れる必要はないのです。キリストと共に死んだ人は、肉の芯を砕き、神に心を向けます。
ですからこの肉を放棄し、キリストにあって生きていこうとするのです。そして、キリストに
満足していただける方向に心を向けていくのです。「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、
たましいの砕かれた者を救われる。」のですから、このような人は、豊かな霊の祝福を味わいま
す。私たちには、御霊に属しているものとして、肉の心を砕き、罪の自我から離れて、キリストに
在って生きていこうではありませんか。
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