「感覚を訓練された人」
ヘブル書5章11〜14節
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@今朝は、14節の御言から、「感覚を訓練された人」とはどういうことかを考え、霊的な大人のハイレベル
な信仰について学びたいと思います。
A さて、神の御心は、私たちの心が開かれて、いつも喜んでいることです。ところが私たちは、神が私たち
に下さった立場を感謝し味わうどころか、自分の弱さと情けなさを見てうなだれ、心を閉じています。 この
霊的な貧しさはどこから来るのでしょうか。それは、神の愛を単純にそのまま受け取っていないからです。
神は、愛する独り子である御子を殺すほどにして、私たちを贖い、神の栄光を表す立場としてくださいまし
た。この立場を感謝して味わい、それを表して行けばいいのです。すなわち、「感謝だなー。」と、その世界
に入っていけばいいのです。それは頭ではなく、心、感覚で、身につけるものなのです。そしてそれを実践
していくことによって、「それでいいんだ。」と、その幸いを味わっていくのです。これが堅い食物であり、
その感覚を身につけて、大人の信仰へと成長していく人なのです。
B では、感覚を身につけるにはどうすればいいのでしょうか。
先ず前提として、信仰を実際に働かせていくのは心ですから、心で分かっていなければなりません。
確かに信じた当初は、頭を使い、信仰の基本を学びました。そして、その知識を増やしていくことが大人
の信仰のように思っていましたが、そうではありません。それは初歩の教えであり、幼子のものです。
しかし、信仰の実践によって、「良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されていくこと」が大人の堅い
食物なのです。それは、聞いた神の御言・神の真理を、単純に!心に入れ、それを実践することによって、
「それでいいんだ。」と感覚を身に着けていくことです。例えば、Tコリント11章7節には、「男は神の似姿
であり、神の栄光の現われだからです。」とありますが、この御言を読んで、どのように反応するでしょう
か。この御言を単純に心に入れた男の人は、霊の側に立ってこう思うでしょう。 「そうか!私は神の栄光
の現われなのだ。感謝だな。神の栄光をどんどん現していけばいいんだ。そうして行こう!」 と向かって
いきます。ところが、御言葉を単純に心に入れない人は、「自分も神の栄光が現されるために、祈っていき
たい。」と心の中に思うだけで、そのようにしません。しかし、単純に受け入れる人は、前向きに、「これで
いいんだ。」と経験によって味い、良い物と悪い物を見分ける霊的感覚が訓練されつづけ、身についてく
るのです。私たちは神によって造られ、御子の命によって贖われた者ですから、自画像を貧しくしてはいけ
ないのです。ただ、柔らかい心を持って、積極的に御言葉に立ち、この感覚を身に着けていけばいいの
です。
C 大人の信仰は、神がしてくださったことを素直に認め、その感覚の中に入っていくことです。私たちが
イエス・キリストを信じたスタートは、この感覚から入ったことを思い出してください。そして、今この感覚に
よって、御言葉をそのまま味わっていく訓練をされていくなら、自分の弱気な肉を見なくなり、人の肉が
働いても気にならなくなるでしょう。 ですから、この霊的モードで、大人のハイレベルな信仰を身につけ
ていきましょう。
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