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2005年2月6日


「肉の思いと御霊の思い」

ルカ23章39〜43節


@ 今朝は、私たちが信仰の意志を働かせ、「御霊の声を聞いて生きていく。」と心を定め、決断して

いく生き方
を、学んでいきたいと思います。

A さて、イエス様の両脇に十字架にかけられた二人の強盗は、イエス様に対して、全く正反対の

反応をしました。一人は、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と、十字架につけら

れたムカつきと、腹だたしさを前面に出し、悪口を言っています。ところがもう一人は、彼をたしな

めて言います。「お前は神をも恐れないのか。 ・・・われわれは、自分のしたことの報いを受けて

いるのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と、謙虚な言葉を語りま

した。自分の罪を認め、へりくだって考えたからです。 
この二人の強盗を見ていく時、二人の姿は、

私たちの中にある、二つの声であることが分かります。それは、一方は肉の思いであり、他方は

御霊の思いです。



B では、私たちの心の中に、どんな二つの声が働くのでしょうか?考えてみましょう。

まず自分のムカつきの思いを、そのまま出した肉の心は、自分の思い通り、期待通りに物事が進ん

で行かないと、不平不満を言い、ヤケッパチになり、人を裁く方に行ってしまうのです。 それは理性
                
でコントロールされていない、肉そのものの心です。ところが、それと相反するもう一方は、御霊の

思いです。私たちクリスチャンの中には、肉の思いとは別人の御霊が居られるからです。

御霊はいつもキリストを見上げていますから、へりくだった思いで考え、神に在って善し悪しを見、

判断するのです。ですから聖書は言います。「御霊によって歩みなさい。」と。それは、御霊の思いに

心を傾け、同意し、その心で歩んで行きなさい、という事です。しかし、御霊の思いと肉の思いとが

干渉しあって、御霊の思いが負けてしまう時があります。 例えば、メッセージを聞いている時は、

御霊の思いを優先して聞こうとしていますが、 終わったとたん、「話は分かるけれど・・・。」と

肉の心の訴えを出し、頭だけの理解になってしまうのです。そのような人は、「神を信頼して

よかった。」という経験を味わっていないため、信頼する確信を持てず、いつも頭だけの信仰に

なってしまっています。これではクルシミチャンになるだけです。

しかし、たといそのような不信仰な人でも、御霊は住んでおられ、御霊の思いがあるのですから、

御霊の思いが強かろうと弱かろうと、御霊の思いに従って歩むかどうかは、自分次第であり、自分

で決め、定めていく主権があるのです。ですから、御霊によって歩むかどうかは、自分にかかってい

ます。



C 
クリスチャンには、御霊に心を向け、御霊で歩んでいく主権があります。 しかし、それと

同時に、肉の頑固な思いがあり、その両者がいつも戦っているのです。
 この肉の思いを放棄した
                               
ら、勝つ見込みがなくなってしまうと肉で考え、肉の思いを棄てきれず悶々とし、この負けず嫌い

の肉で信仰をだめにするのです。しかし、後の強盗は、
御霊の思いに立ってへり下り、イエス様に

「私を御国で思い出してください。」と自分を委ねました。それに対してイエス様は、 「あなたは

今日、私と共にパラダイスにいます。」 と驚くべき約束をくださったのです。
このように私たちも

御霊の思いに立つなら、良い結果に向くのです。肉の思いは、無視し、御霊の側に立つと決断して

いきましょう。
 




                               
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