「肉の思いと御霊の思い」
ルカ23章39〜43節
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@ 今朝は、私たちが信仰の意志を働かせ、「御霊の声を聞いて生きていく。」と心を定め、決断して
いく生き方を、学んでいきたいと思います。
A さて、イエス様の両脇に十字架にかけられた二人の強盗は、イエス様に対して、全く正反対の
反応をしました。一人は、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と、十字架につけら
れたムカつきと、腹だたしさを前面に出し、悪口を言っています。ところがもう一人は、彼をたしな
めて言います。「お前は神をも恐れないのか。 ・・・われわれは、自分のしたことの報いを受けて
いるのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と、謙虚な言葉を語りま
した。自分の罪を認め、へりくだって考えたからです。 この二人の強盗を見ていく時、二人の姿は、
私たちの中にある、二つの声であることが分かります。それは、一方は肉の思いであり、他方は
御霊の思いです。
B では、私たちの心の中に、どんな二つの声が働くのでしょうか?考えてみましょう。
まず自分のムカつきの思いを、そのまま出した肉の心は、自分の思い通り、期待通りに物事が進ん
で行かないと、不平不満を言い、ヤケッパチになり、人を裁く方に行ってしまうのです。 それは理性
でコントロールされていない、肉そのものの心です。ところが、それと相反するもう一方は、御霊の
思いです。私たちクリスチャンの中には、肉の思いとは別人の御霊が居られるからです。
御霊はいつもキリストを見上げていますから、へりくだった思いで考え、神に在って善し悪しを見、
判断するのです。ですから聖書は言います。「御霊によって歩みなさい。」と。それは、御霊の思いに
心を傾け、同意し、その心で歩んで行きなさい、という事です。しかし、御霊の思いと肉の思いとが
干渉しあって、御霊の思いが負けてしまう時があります。 例えば、メッセージを聞いている時は、
御霊の思いを優先して聞こうとしていますが、 終わったとたん、「話は分かるけれど・・・。」と
肉の心の訴えを出し、頭だけの理解になってしまうのです。そのような人は、「神を信頼して
よかった。」という経験を味わっていないため、信頼する確信を持てず、いつも頭だけの信仰に
なってしまっています。これではクルシミチャンになるだけです。
しかし、たといそのような不信仰な人でも、御霊は住んでおられ、御霊の思いがあるのですから、
御霊の思いが強かろうと弱かろうと、御霊の思いに従って歩むかどうかは、自分次第であり、自分
で決め、定めていく主権があるのです。ですから、御霊によって歩むかどうかは、自分にかかってい
ます。
C クリスチャンには、御霊に心を向け、御霊で歩んでいく主権があります。 しかし、それと
同時に、肉の頑固な思いがあり、その両者がいつも戦っているのです。 この肉の思いを放棄した
ら、勝つ見込みがなくなってしまうと肉で考え、肉の思いを棄てきれず悶々とし、この負けず嫌い
の肉で信仰をだめにするのです。しかし、後の強盗は、御霊の思いに立ってへり下り、イエス様に
「私を御国で思い出してください。」と自分を委ねました。それに対してイエス様は、 「あなたは
今日、私と共にパラダイスにいます。」 と驚くべき約束をくださったのです。このように私たちも
御霊の思いに立つなら、良い結果に向くのです。肉の思いは、無視し、御霊の側に立つと決断して
いきましょう。
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