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2005年1月30日

「主の御声に従う」

ルカ19章28〜40節 



@ 今朝は、イエス様の求めに対して、弟子たちはどのように行動すればよかったのかを考え

ながら、私たちの信仰の歩みについて考えてみたいと思います。



A さて、これは、イエス様がエルサレムに入城される間際の出来事です。エルサレムを間近に

して弟子たちに言われました。「向こうの村に行きなさい。そこにはいると、まだ、だれも乗った

ことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて連れて来なさい。」

と。これは、他人のろばの子を連れて来なさいという事ですから、いわば泥棒であり、世間では常識

はずれの事です。求められる者にとっては、「随分乱暴なことを言われるなー。」と思うでしょう。

そこで、この求めに対して三通りの反応を考えられます。まず一番目の人はこう言うでしょう。

「出来ません。」 もし万が一、泥棒扱いされたらイヤだからです。二番目の人は、ためらいつつ、

「嫌な事を頼まれたけど、イエス様に従っていきたいから、仕方がないな。」と、しぶしぶ行く人で

す。三番目の人は、言われた通り素直に「ハイ」と答えて前向きに行く人です。「自分はイエス様の

しもべですから、イエス様のためだったら何でもやります。」と考えているからです。

では、弟子たちはどの判断に立ったのでしょうか。もちろん、3番目の人々です。


B それでは、私たちはどうあるべきなのか、考えてみましょう。

まず大事なのは、判断の基準をどこに置くかです。もし自分の肉の側に立って考え、判断しようと

するなら、一番目か二番目の人の行動となるでしょう。しかし、イエス様の側に立ったなら、

「イエス様が必要とされているなら、行きます。」と、三番目の人の行動となるでしょう。


弟子たちは、イエス様が、なぜロバの子を必要とされていたのか理解していた訳ではありません

でしたが、従いました。そして、後でイエス様がロバの子に乗ってエルサレムに入城された時に、

人々の歓声を聞きながら、「このためだったのか!」と満足と喜びを感じたことでしょう。

このようなことは、私たちの信仰の歩みにおいても、たびたびあることです。神は、私たちが逃げた

くなるような状況の中に置かれて、私たちを試され、信仰を訓練されるからです。

例えば、アブラハムの場合、彼は一人子イサクを捧げよ、と試されました。神は、人間がどう反応

するのかを、知りたいのです。アブラハムが、「子殺しと言われるのはイヤだ。」という思いを

持つ事も、神はご存知なのです。しかし、その上でアブラハムが、「主が言われることは、ベスト

だ。」と素直に従い行動する信仰者であることを願われたのです。ですから、私たちも主の御声に

素直に従えば、後で素晴らしい結果を味わうのです。ですから、私たちも、いつも主の目から

見て判断する者であるべきなのです。



C 私たちの教会は、主にあってベストだと思ったら、人間的な計算も駆け引きもなく、なりふり

かまわずやってきた教会です。「主の御心に従えば、ベストだ。」と、常にストレートに従っていく者

とされていきたいと思います。そのような人は、牧師の有益な助けとなり、信仰の勇士となって

いくからです。単純な心を持ってベストな道を求めて行きましょう。



                               
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