『ギブの伝道』
マタイ19章16節〜26節
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@私たちの教会は、「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
というこの御言で、これから伝道して行きたいと思います。それは、これからの伝道は「返ってくる
ためにするのではなく、真理を提供して選んでもらう。」という伝道を目ざすためです。
そこで今朝は、その伝道の心について学びたいと思います。
A さて、私たちの教会には、多くの人々が来ても、ただ来るだけで終わってしまう人が多くいま
した。この青年も、イエス様の許にせっかく来たのに去っていきました。多くの財産を持っていた
からです。この時イエス様は、金持ちが天の御国に入るより、らくだが針の穴を入る方が簡単だと
言われました。何故ですか? 福音を聞いた時、この救いはこの世のものではないと感じ、この
救いに入るには、仏壇や家族や世のものなど、捨てねばならないものが一杯あると感じたから
です。実に救いは、狭き門です。
それでは、どんな人が救われてくるのでしょうか?「それは人にはできないことです。しかし、
神にはどんなことでもできます。」−そのことの証拠として、金持ちのザアカイさんさえ、
イエス様の救いに預かりました。それは、私たちには出来ないことでも、神にはどんなことでも
できるということの証です。すなわち、私たちがするのではなく、神がされるのですから、
私たちのすることは、ただ純粋に与えていけばいいのです。それは、ギブ&テイクではなく、
ギブ・ギブ・&ギブの生き方です。この心が私たちの心に入ったら、何も怖くありません。結果を
出さねば、というテイク(取る、受ける)の心に縛られないからです。
B では、ギブの心で生きることについて考えてみましょう。私たちは、イエス・キリストの救いを
味わった時、キリストのために生きて行きたいと思いました。それは、ギブの心です。なぜなら、
神に対して生きようと考えた時、それは、与えていくという純粋な生き方しか無いと分かったから
です。まさにギブ&ギブの生き方です。それまでは、自分が満足することばかりを求め、友人、
知人、親、兄弟たちからは、受けることばかりしか考えていませんでした。それは、私たち人間の
心には、生まれながらにしてテイクの心があるからです。「こんなに一生懸命やっているのに、
何故叱られるのか。」とか、「こんなに頑張っているのに、何故認められないのか。」と、いつも見返り
を求めるテイクの心です。私たちが見返りを求めた時、純粋性を失っていきます。逆にもし、私たち
の心の中にテイクの心が無く、純粋にギブで生きているなら、神から頂くときには、何の後ろめた
さも無く、大胆に受けていくことができます。そして、それによって信仰は増していきます。
それは、信仰が増す時です。ところが、自分の信仰によって与えられたと思うと、そこにギブ&テイク
の心がありますから、当たり前となって、信仰は減少していくのです。このように、建前はギブ、
心の中ではテイクでは伝道はやって行けないのです。神の前に歩んで行くとは、どんな結果が
出ようが、与え続けていくことです。この道に向かえるのは、「神にはどんなことでも出来る。」
という神への信頼に立つからです。
C 「神にはできる。」という信頼の心が、心に入ったとき、私たちは、「ダメだ」「できない」と
いう言葉はなくなります。ただ、肯定的な開かれた心で与えていく伝道になります。それは、
返ってくるための伝道ではなく、ギブの伝道です。この道に歩み出しましょう。
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