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          2005年10月9日
 『ギブの伝道』 
      

マタイ19章16節〜26節


@私たちの教会は、「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
 
というこの御言で、これから伝道して行きたいと思います。それは、これからの伝道は「返ってくる

ためにするのではなく、真理を提供して選んでもらう。」という伝道を目ざすため
です。

そこで今朝は、その伝道の心について学びたいと思います。


A さて、私たちの教会には、多くの人々が来ても、ただ来るだけで終わってしまう人が多くいま

した。この青年も、イエス様の許にせっかく来たのに去っていきました。多くの財産を持っていた

からです。この時イエス様は、金持ちが天の御国に入るより、らくだが針の穴を入る方が簡単だと

言われました。何故ですか? 福音を聞いた時、この救いはこの世のものではないと感じ、この

救いに入るには、仏壇や家族や世のものなど、捨てねばならないものが一杯あると感じたから

です。実に救いは、狭き門です。

 それでは、どんな人が救われてくるのでしょうか?「それは人にはできないことです。しかし、

神にはどんなことでもできます。」−そのことの証拠として、金持ちのザアカイさんさえ、

イエス様の救いに預かりました。それは、私たちには出来ないことでも、神にはどんなことでも

できるということの証です。
すなわち、私たちがするのではなく、神がされるのですから、

私たちのすることは、ただ純粋に与えていけばいいのです。それは、ギブ&テイクではなく、

ギブ・ギブ・&ギブの生き方です。この心が私たちの心に入ったら、何も怖くありません。結果を

出さねば、というテイク(取る、受ける)の心に縛られないからです。



B では、ギブの心で生きることについて考えてみましょう。私たちは、イエス・キリストの救いを

味わった時、キリストのために生きて行きたいと思いました。それは、ギブの心です。なぜなら、

神に対して生きようと考えた時、それは、与えていくという純粋な生き方しか無いと分かったから

です。まさにギブ&ギブの生き方です。それまでは、自分が満足することばかりを求め、友人、

知人、親、兄弟たちからは、受けることばかりしか考えていませんでした。それは、私たち人間の

心には、生まれながらにしてテイクの心があるからです。「こんなに一生懸命やっているのに、

何故叱られるのか。」とか、「こんなに頑張っているのに、何故認められないのか。」と、いつも見返り

を求めるテイクの心です。
私たちが見返りを求めた時、純粋性を失っていきます。逆にもし、私たち

の心の中にテイクの心が無く、純粋にギブで生きているなら、神から頂くときには、何の後ろめた

さも無く、大胆に受けていくことができます。
そして、それによって信仰は増していきます。

それは、信仰が増す時です。ところが、自分の信仰によって与えられたと思うと、そこにギブ&テイク

の心がありますから、当たり前となって、信仰は減少していくのです。このように、建前はギブ、

心の中ではテイクでは伝道はやって行けないのです。神の前に歩んで行くとは、どんな結果が

出ようが、与え続けていくことです。この道に向かえるのは、「神にはどんなことでも出来る。」

という神への信頼に立つからです。



C 「神にはできる。」という信頼の心が、心に入ったとき、私たちは、「ダメだ」「できない」と

いう言葉はなくなります。ただ、肯定的な開かれた心で与えていく伝道になります。それは、

返ってくるための伝道ではなく、ギブの伝道です。この道に歩み出しましょう。


                                    



     
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