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2004年8月22日

                                                                                 
「心を開くことの幸い」

ヨハネ12章36〜43節

                         

@ ユダヤ人は、イエス様がなされたしるしを目の前で見ながらも、イエス様を信じようとはしません

でした。そこで今朝は、彼らの信じようとしなかった理由を考え、心を開く事の幸いを学びたいと

思います。



A さて、預言者イザヤは言いました。「神は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなに

された。・・・」と。それは、イエス様が多くのしるしをなされたのを見ても、彼らが信じようとし

なかったからです。確かに、メシヤはガリラヤからは出ないはず・・・と理解できない部分もあっ

たでしょう。しかし、わざわざバプテスマのヨハネが遣わされ、彼の証言がありました。また、神で

なければ出来ない業がなされていました。ですからイエス様は、私の言葉が信じられなければ、

わたしの業によって信じなさい。と言われたのです。にもかかわらず多くの人々は、分かっていな

がらも、自分の意志で信じようとはしませんでした。心を堅く閉じていたからです。その心をご覧に
              
かたく
なった神は、彼らの目を盲目にし、頑なにし、心で理解する事も回心する事も出来ないようにされた

のです。それは、彼らが神からの栄誉よりも、人の栄誉を愛したからです。



B では、イエス様が、神から出ておられる方だと理解できるへり下った心とはどのような心で

しょうか。

 イエス様は、「だれでも神の御心を行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たも

のか、私が自分から語っているのかが分かります。」と言われました。即ち、神の御心を行なおう

とするその願いがある人は、神に対して心を開いて歩んで行こうとしていますから、イエス様が神

から出ているのかどうかが分かるのです。霊の波長が合うからです。神から出ていると分かった者

は信じるのです。
ところが、イエス様の業を見ても、その心を表わさない者たちがおりました。

彼らは、神からの栄誉よりも、人からの栄誉を愛したからです。彼らは、自分で自分の心をごまか

しているのです。もし彼らが、自分の罪を罪としてはっきりと認める心があるならば、罪の責任を

認め、イエス様の言葉を、そのまま心に留めたでしょう。そうすれば、自分の栄誉、立場、都合より、

神からの救いのほうが大切だと分かるからです。しかし、罪の責任を取りたくないために、罪を

認めようとしない者に対して、神はその人の心を頑なにされるのです。ですから私たちは、
イエス様

を神からでている方だと認めるためには、開かれた心が大切なのです。自分の我のために、心を

閉じていたら、自分でもどうにもならない中に入ってしまうからです。自分の都合に関係なく徹底

的に無条件に心を開いていくことが大切なのです。



C イエス様は言われました。「わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさ

らに大きなわざを行います。」
と言われました。神は、信じていく者を使いたいのです。自分の都合で

心を開いたり、閉じたりするのではなく、どこまでも心を開いていく、へりくだった心で従って

行く時、神は栄光を表してくださるのです。そこに私たちの幸いがあります。心を開いていく事

を、当たり前の信仰として行きましょう。

 

                      

                               

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