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2004年12月5日

                                                                                 
「神の無限の愛」

ロマ書7章15節〜8章3節

                        



@ 今朝は、罪深い私たちに対し、神様の愛は無限に注がれている事を学びたいと思います。

A さて、この7章には、使徒パウロが、イエス様を信じてから初めて自分の罪に気づき、苦しんだ

事が赤裸々に記されています。それまでのパウロは、厳格なパリサイ人として自信に満ち、律法を

落ち度なく行って、誰からも後ろ指を指されない者でした。ところが、イエス様に出会ってから、
                                            ちりあくた
「自分は罪人の頭だ。」と思うようになり、それまでの誇りはすべて塵芥と思うようになったのです。

まさに180度の大転換です。

B では、パウロが、「自分は罪人の頭だ。」と思うようになった経緯について見てみましょう。

私たちは多くの場合、自分が教える立場に立ったり、指導する立場に立つと、あたかも自分は

落ち度のない者のように錯覚してしまう傾向にあります。また、「真面目に生きようとしている

から、自分は真面目な人間だ。」、「正しい生き方をしようとしているから自分は正しい人間だ。」、と

錯覚してしまう傾向にあります。パウロもまた、厳格な教師の下で、律法を徹底して学んでいくうち

に、自分は正しい人間であるかのように錯覚して行ったのです。しかし彼は、イエス様と出会って

から、「私は、自分でしたいと思う善を行わないでかえって、したくない悪を行っています。」と

分かってきたのです。それまでは、自分の自己中心な思いと見方によって、自分が正しいかのように

ごまかす事が出来ました。ところが、イエス様を知ったことによって、自分を客観的に見ておられる

方がおられる事が分かってきたのです。すると、どうでしょう。善をしたいという思いがあるから、

自分は善人だという訳にはいかないと分かってきたのです。神の存在をはっきりと認めたとき、

一切を隠すことが出来ないと分かってくるからです。確かに表では人に良いことを教え、自分も

良いことをしているかのように見せることができるかもしれません。しかし神は、人には見えない

裏側の心を、全て御存知なのです。この客観的に見られる方の前に立った時、「自分は人を裁き

ながら自分も同じことをしている者であり、自分こそ罪人だ。」と分かってくるのです。

ですからパウロは言いました。「私には、自分のしていることが分かりません。私は自分がしたいと

思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。」
と。自分の心を自分で

コントロールできない自分を見て叫んだのです。「私は本当に惨めな人間です。誰がこの死のからだ

から、私を救い出してくれるのでしょうか。」
と。これは私たちの叫びでもあるのです。

C パウロは、したくない悪をしてしまう惨めな自分を知りました。しかしその後で、「私たちの

主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」と勝利宣言したのです。私たちの罪の贖いの

ために、神はご自分の御子を、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、私たちの身代わりとし

て、償いをさせられたからです。ですから、私たちが自分の罪を正直に告白するなら、その罪を

赦し、キリストの血によってきよめて下さるのです。ですから、私たちには、赦されて歩んでいける

神の無限の愛が注がれているのです。



 


                      

                               

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