「救い主イエス・キリスト」
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第Tコリント15章1〜21節
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@ 今朝は、私たちが、イエス・キリストの救いに預かっているという証拠はどこにあるのかを
考え、この方以外に救いはないことを確認したいと思います。
A さて、私たちは、自分が歩んできた人生を思い返した時、失敗したイヤな事をたくさん思い出し
ます。そして、依然と変わらない自分を見る時、自分で自分を善くすることが出来ない無力感に襲わ
くぎょう
れるのです。私は、ある高僧といわれる方が、千日苦行を成し遂げた後で、インタビューに答えて
言われた言葉を思い出します。「私は、まだまだです。」と。どんなに苦しい修行をしたとしても、
「もう大丈夫。」と心の平安を得ることは出来ないのだと分かります。すなわち、人は自分で自分を
救うことは出来ないのです。ですから、救っていただくしかありません。ところが、人はみな罪を
つぐな
持っていますから、人が他人の償いをすることは出来ません。神以外に私たち人間を救える方は
おられないのです。 聖書は言います。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために
死んでくださった。」と。すなわち、罪人の私たちをありのまま救うことがおできになるのは、神の
御子イエス様だけなのです。
B では、なぜイエス様でなければいけないのでしょうか。
その疑問に答えるのが、 イエス・キリストの復活です。神は、私たち人間を救うための具体的な
シナリオを、イエス様がお生まれになる700年ほど前に、預言者イザヤを通して預言されまし
た。「時が満ちると、神の御子が肉体を取るために処女からお生まれになる。」と。それは、人の
あがな
罪を贖うために、神が、人の目にはっきりと見える形でおいでになるためでした。そして預言の
通りに、罪びとを贖うために十字架につけられ、死に、葬られたのです。こうして私たち人間の
罪の代価を払ってくださったのです。それが確かなことだと分かるために、神はイエス様を
よみがえ
甦らせ、イエスこそ神の御子として、人を罪から救うことの出来る救い主であることを明らかに
されたのです。使徒パウロは、この事実を手紙に書いて コリントの人々に送りました。当時は、
未だ復活したキリストを目撃した人たちが生きていましたから、疑う人々は聞きに行き、確認する
ことが出来たのです。もし復活が無くウソだったなら、パウロやペテロたちも命をかけて宣教の
働きをすることもなかったでしょう。多くのクリスチャンたちも迫害から迫害へと苦難の道を歩む
ことも無かったでしょう。復活が無かったなら聖書の話も事実無根のたわごととなり、救いの
根拠も無く、キリストは単なる偉人となって、信仰は虚しいものとなってしまうのです。
しかし、復活の証人がいたからこそ、今日まで聖書が伝えられているのです。キリストの復活を
自分で確認して喜んだ者たちは、その真実を伝えたかったのです。そしてイエス様が甦った事に
より、私たちも甦らされて、永遠の命を持つ者となる望みと保証があるのです。
C イエス・キリスト以外に救いはありません。この救い主は、今も生きて父なる神の御座の右に
おられ、私たちのために取り成しをして下さっているのです。主は生きておられるからこそ、今なお
現実に助けて下さる方なのです。ですから、自分で自分を守る必要はありません。救いを求める
なら、ただ「イエス様、あなたに信頼します。守り導いて下さい。」と、生きておられるキリストを
信頼していけばいいのです。
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