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2004年1月18日


「不信仰の矢をへし折って

ルカ14章25〜35節


@ 今朝は、私たちが神の前に用いられる者となるためには、どのような信仰に立つべきかを

考え、学んでいきたいと思います。



A さて、私たちが豊かな幸いを受けていくかどうかは、私たちの信仰をいかに働かせていくかで

決まってきます。
ですから、どんなに幸いな約束が与えられていても、信仰によってそれに答えて

いかなければ約束のようにはならないのです。その信仰の秘訣がここに記されています。



B では、主に従って行く時に必要な心について見てみましょう。イエス様は、 従って来ようとし

ている群衆に向かって言われました。 「自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまで

も憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」と。これは、自分の両親や肉親を憎んで嫌

え、と言われているのではありません。『父と母を敬え。』、という教えは、律法の基本として与え

られています。しかし私たちが、神を第一として従って行こうとする時、親兄弟の考えにそぐわない

ことも起こってくるのです。しかし神は、まず、ご自身に従うことを願われます。しかし、一時の

肉親の情に流されて神を第一としないなら、神に従う人生を全うすることは出来ません。そればか

りか、「自分の命を憎み、自分の十字架を負ってついて来るのでなければ弟子となることはできま

せん。」
とまで言われました。自分の命をもささげるという本気の心、純粋な心を持たなければ、途中

で折れてしまうからです。
それは、家を建て始めても、途中で投げ出してしまう人と同じで、ただ

人々の物笑いになってしまいます。イエス様は、この地上に来られる時、すでにご自分の命を捨てる

覚悟で来られ、死ぬために来られました。 この神の御子が、本気で私たちのために来られ、ご自身

の業を現わそうとしておられるなら、私たちも自分の命をかけて従って行かねばなりません。この

ことは、私たちの祈りにも表われます。ともすると、「不安だけど。とりあえず祈ろう。」と考えてし

まいます。これは、神への信頼が弱いからです。「何でもかんでも聞いてもらえる訳ではない・・・」

という疑いを入れているからです。主は言われます。『少しも疑わずに、信じて願いなさい。 疑う人

は、主から何かをいただけると思ってはなりません。』と言われています。それなのに、私たちは

祈ってもダメだ、という否定的な声を、心に入れています。その原因は三つあります。

 @ 自分自身が、もともと疑い深い者だから、A 悪しき霊からの語りかけのため、

 B 人から疑いの声を聞くための三点です。

もし、
これらの不信仰の矢を自分でへし折らないと、不信仰な思いが、心を支配するのです。

神は、私たちが不信仰の矢をへし折る所に信仰を見られるのです。そして、私たちもまた、へし折っ

た時、堅く信仰に立つ心が出てくるのです。



C 神は新しい年、新しい展開へと導く、と言われています。しかし、神様任せの臆病な心を持った

ままで「お願いします。」ではいけません。弱い自分を見るのではなく、不可能を可能にされる神を

見て、確信を持って歩んで行きましょう。




                               

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