アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。」
(創22:10)
アブラハムにとって、イサクは、神の祝福を受ける土台でした。それを今献げてしまったら、カルデヤ
のウルから旅を続けてきた100年はどうなるのでしょう。アブラハムが刀を取るということは、自分
のこれまでの生涯の全てを献げることになるのです。 その後に残るものは、 「ただ神を全てとした
心」だけでした。
しかし、これこそが神がアブラハムをウルから導き出した目的です。このモリヤの山上こそ、アブラ
ハムが信仰の高嶺を極める場所だったのです。信仰の試練は、火を通して精錬された金よりも尊いので
あって、イエス・キリストの現われの時、称賛と光栄と栄誉に至るものです。私たちの地上の旅路の目
的は、このアブラハムの信仰に達するためであり、地上の働きの成果を残すためではないのです。
私たちは、天の故郷にあこがれているのですから。 |