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2003年7月13日


「信仰はガマン(忍耐)


第一コリント1章1〜18節 



@ 今朝は、信仰とは、神を信頼するが故のガマン(忍耐)であることを、学んでいきたいと思います。


A さて、世の多くの人びとは、「自分の人生は自分のものだから、自分の個性に合ったポリシーを

大切にして生きて行きたい。」と考えています。しかし、パウロの手紙を読んでいつも感じる事は、

パウロの人生はいつも神中心であり、自分の事は二の次だということです。パウロは、飲み食いする

権利をはじめ、福音の働きによって生活の糧を得る権利を持っていました。 

 しかし、福音の働きを妨げないため、その権利さえ用いず、神に対して生きるパウロの人生は、

徹底した愛による我慢に貫かれた人生だったのです。



B では、我慢する信仰について考えてみましょう。 先ず自覚しなければならないのは、「私たち

の肉はいつも自己中心で自分を守ろうとするものだ」。ということです。これは、神に従って行こう

とする時一番邪魔になるものです。確かに何の問題も無く順風の中にある時は、神を第一にして行け

るでしょう。しかし、困難な問題が起こり、窮地に立たされた時はどうでしょうか?自分の考えや

計算が働き、「絶対こうあって欲しい」という思いが強くなり、肉の思いで一杯になります。

すると神の御心を第一にしていこうとする心は、どこかへ行ってしまうのです。窮地に立たされた

時こそ、普段の信仰が明らかとなり、試されるのです。私たちの神は、ぎりぎりの窮地を通され試さ

れます。

  例えば、アブラハムが、「イサクをささげよ。」と言われた時、こう期待しなかったでしょうか。

 「神は必ず、ささげる決意さえすればモリヤの山に行く前に、『もういいと言ってくださるはず

だ』と。そんなむごいことを神が求められるはずがないし、試されただけだ。」と期待したこと

でしょう。ところが神は、アブラハムがイサクを祭壇の上に載せ、剣を振り下ろそうとする、ぎり

ぎりの時まで声を掛けられなかったのです。アブラハムは、「神には人を死者の中からよみがえらせ

ることもできる。」という信仰の故に、ぎりぎりの所まで我慢したのです。私たちはこの10年間、

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」との御言に支えられて来

ました。  それでも窮地の中に置かれると、「アレをすべき、コレをすべき」と考えてしまいまし

た。 しかし、もし人間的判断で動いてしまっていたら、悪魔の罠にはまっていたことでしょう。

それこそ行き場の無い窮地に追い込まれてしまっていました。ここで要求されるのはやはり、主の

御言を信頼するが故に、忍耐し、我慢することです。神は、その全てのご計画の中で、全てのことを

働かせて益としてくださる方だからです。 神が、どのように終止符を打たれるか分かりませんか

ら、その時まで我慢するのです。



C 日本の歴史の中で、信仰ゆえに迫害され殉教していったクリスチャンがたくさんいます。
自分

の身をかけた戦いは、頭だけの信仰ではやっていけません。本気だったのです。今の平和な時代に迫

害はないと考えてしまいますが、そうではありません。私たちの兄弟のうちに起こっている信仰の

迫害は、最後まで同じ心で戦い、我慢するなら、信仰が強くされるでしょう。神が、私たちの味方な

のですから。


 





                               

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