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2003年6月29日


「確信を投げ捨てず


ヘブル書10章32〜39節

@ 今朝は、何故、「確信を投げ捨ててはなりません。」と言われているのか、学んで行きたいと思い

ます。

A さて、イエス・キリストの救いに預かった人は、これまで味わったことのない光の中に入る経験

と、平安を味わいます。そのため、全ての人に本物の神の愛を知って欲しいと願い、友人や知人に

福音を語り出します。しかし、その思いは無残にも打ちのめされ、かえって、バカにされたり、迫害を

受けたりしてしまうのです。そんな時、私たちの心は萎縮し、独り善がりだったのだろうかと、自信

を失ってしまうのです。
しかし、福音の確信は投げ捨ててはいけません。信仰の先輩たちも同じ経験

を味わってきたのであり、私たちの確信は本物なのです。



B では、私たちが確信を失い、つまずきを味わう原因はどこにあったのでしょうか。 これまでの

クリスチャン生活で、私たちは、たびたび行き詰まりを経験してきました。 そんな時私たちは、

神は不可能を可能にしてくださる方だから、問題を劇的に解決して頂きたいと願い、熱く祈りまし

た。ところが、助けて欲しいと願っている時には、いくら祈っても、期待通りの助けはなく、その後に

思いがけない方法で助けられた、という経験ばかりを味わってきました。とはいえ、「祈ったら直ぐ

聞かれた。」という小さな経験も数々あります。しかし、こと大きな問題になると、思い通り行かず、

ダメだと確信を投げ捨て、敗北した後に神の助けが来る、という経験を多くしています。

 このような、敗北した後での助け、また確信を失った後での助けであったため、神の助けがあって

も、私たちの信仰の成長に結びつかなかったことが多いのです。そこで考えたいのは、「私たちの

うちに、神に対して徹底してすがるという点において甘えがあったのではないか」、という事です。

自分たちの計算、自分たちの思い通りに事が運ばないとダメだと思ってしまう甘えと、我のゆえに

簡単に確信を投げ捨ててしまう。こんな私たちの自分勝手さが、恥ずかしい結果になっていたので

はないでしょうか。アブラハムは、イサクが与えられるまで50年も待ちました。そして、子を産む

ことが不可能となった時に与えられたのです。ミラーさんも、「孤児の父は、天の父だ。」という御言

を信じて、孤児院を始め、その日その日の必要を神に祈り求め、最後まで確信を投げ捨てませんでし

た。 ですから信仰の成長となり、「神を一度も疑わなかった。」と証言したのです。



C 
主は言われます。「この世にあっては患難は多い、また、自分の思い通りにならないことは一杯

ある。しかし、いついかなる時も主の御手があることを忘れてはいけない」と。
いつ、いかなる時も、確

信を投げ捨てずに行くなら、信仰は増していくでしょう。
しかし、忍耐しきれず、不信仰になって確信

を投げ捨てるなら、信仰は後退していくのです。
私たちは、信仰に踏みとどまり、信仰が強められてい

かなければ、この町のリバイバルは始まりません。踏みとどまって、確信の中に生きて行きましょう。 

そして、「信じる者に働く神の全能のみ力」を味わっていく者となりましょう。







                               

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