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2003年5月18日

「手足を義の器として捧げる」
 ロマ書5章1節


@ 今朝は、ローマ書5,6章から、クリスチャンの歩みについて、学びたいと思います。

A さて、1節で、「信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神

との平和を持っています。」と言われています。これは、私たちが、ただイエス・キリストを信じる信仰

によって神から罪を赦され、義と認められ、完全に受け入れられていることを意味しています。

それは、イエス・キリストが、私たちの全ての罪の償いをして下さったからです。この救いを頂くのに
                                                     

何の条件も要りません。血筋や、能力や、年齢や、男女の違い、また罪の量の違いなどには因らな

いのです。ただ、キリストが私たちのためにして下さった救いのみ業をそのまま受け取るだけのこと
                   

です。ですから、私たちの行いに因らず、一方的な神の恵みです。なんと幸いなことでしょうか。

誰でも、キリストを受け入れるなら、罪を赦され、神との平和を味わうことが出来るのですから。

しかしここで、救われた後のクリスチャンに、一つの疑問が起こってきます。

それは、「神は恵みで全部赦して下さるのだから、弱い私たちが、罪の中の留まるのも仕方が無い

ことではないか。」という事です。パウロは、「絶対にそんなことはありません。」と、強い口調で断言し

ています。そして、クリスチャンの生き方について明快かつ明確に語っています。

「あなたがたの手足を義の器として捧げなさい」


B では、クリスチャンの生き方について考えてみましょう。

その結論は、「救われた私たちは、罪の中に歩むのではなく、義の中を歩んで行こう。」という事で

す。私たちがキリストと共に死んで、よみがえらされたのは、新しい歩みをするためであり、新しい

歩みとは、自分自身の手足を義の器として神にささげる生き方です。それまでの私たちは、自我を

主張する身勝手な生き方をして来ました。しかし、イエス様を信じた時、「これからは、神の義の中に

生きて行こう。」と直感的にそう思いました。ところが、現実はそう甘くはありませんでした。自分の

肉は依然として、自分の思い通りにやって行きたいと御霊に逆らうからです。そこで、ありのままで

救われたのだから、ありのままの自分を出して行ってもいいんではないか、と放縦の道に迷い込ん

だ時もありました。確かに私たちには、罪の中に慣れ親しんできましたので、信じたからといって

直ぐに、罪から離れ、非難される所のない者になれと言われても、難しいものがあります。

しかし、神と自分との一対一の関係で生きていくためには、自分の我を捨てなければなりません。
                
つちか
また、私たちの成長の過程で培ってきた甘えから出る身勝手な行いも捨てていかなければなりま

せん。自分の義を立てていくなら、神に用いられないからです。しかし、
もし私たちが、「自我と甘えを

断ち切っていく」と決断して歩み出すなら、神が助け、後押しして下さるのを味わうのです。



C 私たちには、神の恵みと赦しの愛が注がれています。だからこそ、「義の中に歩んで行こう」と、

甘えを断ち切って行くのです。これが、成長していくクリスチャンの信仰です。

アブラハムさんのように、弱さを抱えていても、イザという時には甘えを断ち切って、神の御心に
   
いさぎよ   
立つ、潔い信仰の姿勢を習って行きましょう。そうすれば、主が助けて下さるのを味わうのです。


互いに励まし合い、義の道に進んで行こうではありませんか。 



                               


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