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2003年5月11日

「潔く、力強く歩む」
  第Uテモテ1章3〜8節


@ 今朝は、「信仰の基礎」というテーマで学びたいと思います。

A さて、使徒パウロがテモテに送ったこの手紙から分かる事は、テモテは決して強い人ではなく、

むしろ気の弱い人だったのではないか、という事です。と言うのは、福音のために囚人となったパウ

ロを恥かしく思い、コソコソと逃げるようなところがあったのではないかと思われるからです。

パウロは、この小心で気の弱いテモテに対して、彼の純粋な信仰を思い起こさせ、喚起させ、福音の

ために自分と苦しみを共にして欲しいと語っています。そこには、テモテを励まし、しっかりと立たせ

ようとするパウロの心が溢れています。そのパウロが求めているのは霊的強さです。

パウロ自身が、勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通したからです。だから、自分を

見習って欲しいと勧めているのです。そのことは、わたしたちにも、求められている事です。



B では、
私たちが霊的に強く歩み出すために必要なものは何でしょうか。

それは先ず、自分自身が罪人であることをはっきりと認める事です。


それは、私たちが生まれながらの罪人であり、ただキリストの恵みによって生かされ、恵みによって

立たされている者にすぎないからです。わたしたちの全ての根拠は、キリストにあります。

ですから、
何をするにもキリストに目を留め、本気でキリストに頼ってやっていく時、神は後押しをし

て下さり、勝利を味わわせて下さるのです。これがクリスチャンの生き方です。


信じる前の生き方とは根本的に違います。

しかし私たちは、自分が過ちを犯した時、直ぐに自分の非を認めようとはせず、自分を守って言い

訳をしたり、責任を取らずに逃げようとしたりします。信じる前に身に着いた生き方をしてしまうの
        
いさぎよ
です。それでは潔く、力強い生き方は出来ません。ですから、その古い生き方を神の前に断ち切り、

ただキリストに頼り、キリストに従う生き方をして行かねばならないのです。

もし中途半端な従い方をするなら、サラの元から逃げ出して来たハガルのように、後にその実を
                             
ごうまん
刈り取ることになってしまうのです。彼女は自分の傲慢の罪をはっきりと認めて心を変え、身を低く

して女主人サラのもとに帰るべきでした。しかし彼女は、御使いの言葉を聞いてイヤイヤ帰って

行ったのです。彼女の感情が、自分を守って自分の罪を断罪せず、高慢な心を持ったままで帰って

行ったからです。その結果、彼女の高慢な心はその子イシマエルに受け継がれ、追放される結果と

なってしまいました。


C 神は、うわべではなく、心を見られます。

ですから、うわべだけで従ったように見せても、良しとはされません。神は、心から出た嘘偽りのない

従い方、信じ方を願っておられるからです。


その信仰の基礎は、潔く神の前に罪を認め、身を低くする心を持って生きる事です。

自分が全面的に悪かったと認めることが神の前に死ぬことです。

御霊に逆らう肉の感情を断ち切り、アブラハムが味わった祝福を、私たちも味わって行きましょう。  



                               

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