2025年12月21日
『主に全てを委ね、お任せし、
信頼するという信仰の勇気』
ルカ 1:5~38
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(起) ルカ1章の、ザカリヤとマリヤが御告げを受けた場面から、幼子のように、全能主の言葉を
素直に受け入れ、「主に全てを委ね、お任せし、信頼する」という「信仰の勇気」を学びたいと
思います。
まず、創造の御業について、消化の働きを見ていきます。私たちは、食べた物が消化されて栄養に
なるのは当たり前だと思っていますが、考えてみると当たり前のことが、当たり前ではありません。
というのは、もし食べた肉を消化するときに、同時に自分の肉も消化してしまったら、たちまち内臓が
溶けて無くなってしまいます。これをどのように解決しているのでしょうか。それは消化酵素に精巧に
施された仕組みにあります。消化酵素の「トリプシン」は、十二指腸で働きますが、普段は膵臓で
作られ貯蔵されています。膵臓で作った消化酵素は、そのままでは爆弾が爆発するように膵臓の
内壁の肉もどんどん消化してしまいます。そこはあたかも火薬庫のような所です。しかしそうならない
ように、「トリプシン」には手りゅう弾のピンのような安全装置がついた「トリプシノーゲン」という
酵素で保管されているのです。そして、いざ十二指腸に放出されると、「エンテロキナーゼ」という
酵素が、手りゅう弾のピンを外す役割を果たします。すると「トリプシノーゲン」は「トリプシン」
という消化酵素となり、十二指腸で初めて消化の働きが始まるのです。また十二指腸で「トリプシン」
によって消化が始まるときには、十二指腸自体は、粘膜によって覆われ消化されないように保護され
ます。このように、膵臓の消化酵素は、安全装置がついていなければ、自らの膵臓を消化してしまう
危険があるのです。つまり消化酵素は、初めから安全装置がついていて、それを外すことのできる物質
(エンテロキナーゼ)と同時に存在して、役割を果たせるのです。これは初めからそうなるように設計
されていないと成し得ない叡智に満ちた設計、叡智の産物です。その叡智を持った設計者こそ、聖書に
「あなたは、それらをみな、叡智をもって造っておられます」(詩篇104:24)と言われる「全能主、
ヤハウェ」なのです。
(承)さて、私たちの命は、このようなすごい仕組みを持って創って下さった全能主がおられるから、
成り立っています。それならば、私達は自分の命を、全能主に信頼してお任せして行けば良いのです。
しかし、その歩みを始め出すには、「信仰の勇気」が必要です。その事について、まずはザカリヤさんが
主の御告げを受けた場面から見て行きたいと思います。祭司ザカリヤとその妻エリサベツには子供が
いませんでしたが、ある日、御使いガブリエルがザカリヤの許に来て、「恐れるな、ザカリヤよ、
あなたの祈りが聞き入れられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子を
ヨハネと名付けなさい」と告げられました。こんな嬉しい御告げを受けたのですから、本来なら
感謝して大喜びするところです。ところが、ザカリヤは御使いの言葉をそのまま信じる事ができず、
「私にどうしてそんな事があり得ましょうか。私は老人ですし、妻も年をとっています」と言ったの
です。それは、地上の常識の範囲内で考え、「そんな事はあり得ないだろう」と不安に思い、恐れを
抱いたのです。人間というのは、御使いを通して全能主の言葉を聞いたとしても、不安や恐れを抱いて
消極的になってしまうのです。ですから、全能主を100%信頼して行くには、「信仰の勇気」が必要
です。
(転)ところが、マリヤさんの記事を見て行きますと、御使いガブリエルがマリヤの許に来て、
「恐れるな、マリヤよ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名付けなさい」
と言いました。すると、マリヤは「どうして、そんな事があり得ましょうか。私にはまだ夫がありま
せんのに」と、ザカリヤと同じような事を言ったのです。しかし、ザカリヤと違う点は、マリヤは
子供を求めていたわけではなかったという事です。ですから、マリヤに対しては、その後、「聖霊が
あなたに臨み、全能主の御力があなたを覆うでしょう」という御使いの言葉が告げられました。
しかし、ザカリヤの場合には、「あなたの祈りが聞き入れられた」という言葉だけで、「聖霊があなたに
臨む」とか「全能主の御力があなたを覆う」とは言われませんでした。それは、ザカリヤはもともと
子供を祈り求めていたので、「祈りが聞き入れられた」という事を素直に喜ぶだけで良かったからです。
ところが、マリヤの場合は、子供を求めていたわけでも願っていたわけでもなかったので、御使いは
「聖霊があなたに臨み、全能主の力が働くのだ」と言ってマリヤを励まし、「全能主にとって、不可能は
ありません」と伝え、「この事は上からの出来事である事」を明らかにされたのです。それでマリヤは
納得し、御使いの言葉を素直に受け入れました。普通なら、「結婚もしていないのに子供ができて
しまったら、人から何を言われるか分かりません。そんな事は有難迷惑です」と言いたくなってしまう
ところですが、マリヤは「全能主がして下さる事柄ならば、人から何を言われても構いません。
お言葉通り、この身に成りますように」と、「信仰の勇気」を以て答えたのです。そして、このように
言える心を持ったマリヤを見たエリサベツは、「主のお語りになったことを、必ず成就すると信じた
あなたは、なんと幸いなことでしょう」と言って喜んだのです。
(結)私達も、このマリヤの心を持つべきです。即ち、ザカリヤのように自分の頭で考えて不信感を
抱くのではなく、マリヤのように全能主の言葉をそのまま信じる勇気です。二人は、真反対の心を
抱きました。しかし、マリヤのように、そのまま信じるという事は、言葉を換えると、幼子のように
受け入れるという事です。幼子はいちいち自分の頭で理屈を考えず、親が言った事をそのまま信じて
受け入れます。そこには恐れがありません。そのように、私達は全能主の言葉を素直に受け入れて
行くのです。それが私達の信仰です。全能主は、「私達の求めるところ、また、思うところよりも、
はるかに越えて成し遂げて下さる」(エペソ3:20)御方です。また、私達の命を創り、天の御国を
下さった御方です。「その御方に全てを委ね、お任せし、信頼して行く」のです。この「信仰の勇気」を
表して行こうではありませんか。
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