2023年2月26日
『たとえできないと思っても、 信じるが故に行動する純真な心』
第Ⅱペテロ3:1~2
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(起) 第Ⅱペテロ3章1節の御言葉から、「たとえできないと思っても、信じるが故に行動する純真な
心」を学んで行きたいと思います。
(承)さて、第Ⅱペテロ3章1節を見ますと、ペテロが「今この第二の手紙をあなた方に書き送った
のは・・・あなた方の純真な心を奮い立たせるためです」とあります。この「純真な心」とは、私たちが
全能主から頂いた「救い」を理解すると分かって来ます。というのは、私たちの救いは「全能主の
アガペーの愛(一方通行の愛)から出たものだからです。それは、罪の道を歩んでいた人間を「全能主
の御国」へ招き入れるために、ご自分の一人子イエス・キリストをこの世に遣わして、私たちの一切の
罪の償いを成し遂げて下さったというものです。しかも、それはアオリスト形の贖いですから、「今、
現在の私たちが、どんなに罪深く、弱い者であろうが、過去において一方的な罪の贖いを成し遂げて
下さっている」という救いですから、「今尚、罪深いものであっても、イエス・キリストによる救いは
実現されている」のです。ですから、この救いの中には、私たちの肉の力が、一つも求められていま
せん。こんな救いが他にあるでしょうか。全能主は、ただ信じて受け取った者に「全能主の御国」に
入れて下さる約束を与えて下さいました。ですから、私たちにとっての救いの根拠は「イエス様の
身代わりの死のみ」しかありません。仏教のように、「修行をして悟りを開いたら救われる」とか、
「お題目を唱えれば救われる」という、人間の側の行いによって救われる世界ではないのです。
ではなぜ、全能主は行いを求められなかったのでしょうか?それは、人間が自分で自分を救えないから
です。ここに、「全能主の方から純真な心を働かせないと、人を救えなかった」という事情があったの
です。ですから、私たちも、純真な信仰を奮い立たせていくのです。
(転)では、全能主の「純真な愛」で救われた私たちは、その救いを頂いた後には、どのような
生き方をして行けばいいのでしょうか。それは、私たちが全能主のアガペー(一方通行の愛)の純真な
救いを、ひたすら感謝して、へりくだった純真な(一方通行)信仰をひたすら表していくことです。
決して、ギブ&テイクの御利益を求めて行く信仰ではありません。具体的には、全能主の前にへり
くだって、全面的に信頼し切った生き方をすることです。なぜなら、たとえ救われた者であっても、
古い肉の自我を抱えた、罪人のままの弱い人間だからです。そして、信じた時だけでなく、信じた後も
どうにもならない罪人であることを認めて、へり下った心で、イエス様を見上げて行くことです。
私たちが信じた始めの頃は、イエス様の贖いを喜び、これからはイエス様に在って生きて行こうと
考えていた筈です。それなのに、信じて行く過程で、途中から自分勝手な律法を立てて、自分の
力により頼み、なんとかクリスチャンらしく、良い人間になろうとし始めるのです。それは、何も
変わっていない自分を見て、なんとか、自分の行いで救いの確信を得ようと為始めたからです。
ところが、全能主は、あえて、信じた人間を強くして、正しい人間にはされなかったのです。何故かと
いうと、罪人の人間を造り替えて強くしたら、サタンのように誇るようになるからです。ですから、
全能主は「弱い罪人を、そのままで救われ、アオリストの救いを成し遂げられた」のです。救いがアオ
リストであるというのは、罪人が御国へ入れられるためには、へり下りを学ばなければならないから
です。ですから、罪人が一瞬に強い人間になったら、救いを感謝するどころか、かえって強い自分に
なれたことを誇る者になってしまうでしょう。このような事情から、全能主はあえて、人間を誇らせ
ないために人を救っても弱い罪人のままにさせているのです。人を強くしたら、イエス様のアオリスト
の救いを感謝しなくなります。人間とはそういう傲慢な者です。イエス様が成して下さったアオリスト
の救いは、「現在が罪人のままでも、罪人の自分は死んだ者と見なして下さった救い」ですから、
「私たちの内、誰一人として自分のために生きている者はなく、誰一人自分のために死ぬ者はありま
せん。それは、私たちが、生きるなら主のために生き、死ぬのなら主のために死ぬからです。ですから、
生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです。(ロマ14:7~8)」とあるように、信じた
者は、全能主のために生きて行くのです。ですから、信じた者の生き方とは、もし全能主が「これを
やりなさい」と言われた時には、たとえできないと思うことであっても、「分かりました」と、全能主
に素直に従って行くだけのことなのです。例えば、ジョージ・ミュラーさんは、全能主から「孤児を
育てなさい」と言われましたが、彼は、聖書の御言葉を単純に信じて、「孤児の父は全能主だから、
全能主が孤児の面倒を見て下さるのだ」と、信頼する心を奮い立たせ、全能主に頼って素直に全能主の
言葉に従いました。これが、信じた者の純真な心の生き方です。なのに、信じた後に、自分に頼るよう
になったら、全能主に素直に従うことはしません。そこに損得がいつも働くからです。それは純真では
ありません。また、途中で「できません」と言ってストライキを起こすことも、純真ではありません。
全能主は、初めから、私たちが罪人だということをご存知の上で、力のない者に向かって、「やりな
さい」と言われるのです。それは、全能主を信頼して始め出すことを
願っておられ、罪人の力に頼って始め出すことを求めておられません。純粋な気持ちで足を踏み出した
者に対しては、全能主は必ず助けて下さり、最後には主が成し遂げて下さるのです。このことを毎回の
ように味わって行けば、益々全能主に信頼する確信が生まれるでしょう。これを味わわずして、信じた
ことにはなりません。信じたのなら、たとえできないと思っても、どこまでもやるのです。それが純真な
アガペーの生き方です。
(結)私たちは、本来ならば救いを頂けるような者ではありません。しかし、全能主が「信じる者には
与える」と言われたので、救いを得たのです。ならば、私たちはその救いの重みを考えるべきです。
そして、その救いの重みの中で、主を恐れ、従って行くべきです。もう二度と「できません」と言って
逃げ出してはいけません。逃げた瞬間に自分の救いを失います。全能主が、私たちに「純な心」を注いで
下さったのですから、私たちも、この純真な心で全能主に従い通しましょう。
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