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2023年2月19日

真理の二面性を理解して、
主に信頼し信仰の努力をする

ピリピ人への手紙 3:1~18


(起) 真理には二面性があることを理解し、どこまでも「主に信頼し、信仰の努力をして」、信仰の

行いを全うして行くこと
を学んで行きたいと思います。


(承)さて、第Ⅰテモテ6:1を見ますと、「奴隷はすべて、自分の主人を、真に尊敬すべき者として

仰ぐべきです」
とあります。書かれていることはその通りですし、これを否定することはできません。

しかし、「これを本当にできるのか?」と考えると、実に難しいことです。また、ペテロの手紙にも

奴隷に対する勧めが出てきますが、そこを見てみると、もっと高度な勧めが出てきます。「尊敬の心を

込めて、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけではなく、悪辣(あくらつ)な主人にも、従いなさい」(第Ⅰペテロ

2:18)
とあるのです。悪辣(あくらつ)とは、「あくどい」という意味です。善良で寛容な主人であれば

仕え易いですが、「あくどい主人」になると、同じような心で仕える事は、実に難しいことです。

そして、先程のテモテ6:1の続きを見ますと、「全能主の御名と教えとが、(そし)りを受けないため

です」
と書いてあります。これは、私たち自身の行いによって、全能主の御名が(そし)られるような

ことがあってはいけない
ということです。ということは、「クリスチャンになると、正しい人間に

ならねばならない」という律法が求められることになります。これは、果たして私たちに出来ること

でしょうか。
例えば、「お前は、教会に行っているのだから」とか、「お前はクリスチャンなのだから」と、

家族・友人に行いを求められてしまうと、私たちは言い訳ができません。なぜなら、
自分自身の行いの

せいで、全能主の名が汚されてはいけない」
と思うからです。すると、自分は聖人でもないのに、「自分は

クリスチャンとして、聖なる生き方をしています」と。人前に表そうと思ってしまうのです。ところが、

クリスチャンといえども、実際には「罪赦された罪人」ですから、信じる前の自分と少しも変わって

いません。にもかかわらず、信じた者として、出来なくても聖書に書いてある以上は、その生き方が

正しいのですから、「やらねばならない」という、自分の正義感が働いてしまうのです。こうして、

知らないうちに偽善者になってしまうのが落ちです。しかし、行いには、二面性があります。信仰の

行い
と、正義感による行いです。しかし、クリスチャンは、律法から解放されていることを忘れては

いけません。ですから、ここでは信仰の行いについて学んでいきます。


(転)ところで、人間の正義感は、元々は悪魔が人間に入れ込んだ偽善です。ですから、人間の正義感

には、自分勝手な傲慢が多々あります。どういうことかと申しますと、悪魔はエバに対して、「この木の

実を食べれば、全能主のようになれる」(創世記3:5)と言い、「全能主のようになれるなら、それは

正しいことだ」という正義感をエバに与えたのです。しかし、結果的にエバがしたことは、全能主に

逆らう罪となり、そこに誘い込んだ悪魔と結びついてしまったのです。
ということは、もし、人間が

全能主のようになったら、全能主に対して誇り、傲慢になって悪魔と同じ裁きに会うことになります


そこで、残念ながら、私たちも全能主に逆らったエバの子孫として生まれて来た為、私たちは、生まれ

ながらに悪魔と結びついた魔物の心があり、
「善をしたいと思っても、かえってしたくない悪を行って

しまう者」となったのです。そんな中で、全能主は私たちが救われるために、人間に一つのチャンスを

与えて下さいました。それは、罪人に対する罪の贖いをして下さったことです。すなわち、全能主が

イエス様を通して、人間の罪の贖いを成し遂げて下さった為、その罪の贖いを受け入れたクリスチャン

は、悪魔が入れ込んだ偽善から離れる事ができるのです。それは、自分がどうすることも出来ない罪人

である事を、まず認めるところから始まります。そして、贖いをして下さったイエス様に全面的に頼り、

自分の正義感から離れることです。なぜなら、救いに預かっても、「自分は罪赦された罪人」であって、

信じてからも自分には罪しかなく、正義感を働かせる義人になった訳ではないからです。ですから、

聖書には、「この悪魔に立ち向かいなさい。信仰に堅く立って戦いなさい」(第Ⅰペテロ5:9)

あります。なぜなら、たとえ信じてから、「自分は主に信頼して従って行きます」と言い続けても、

悪魔と繋がった魔物がおり、正義感を働かせても、そこに傲慢の罪が隠れているからです。
だから、

私たちが悪魔に立ち向かうとは、信仰に堅く立ち、全能主の側に立った考え方に切り替えて行くこと

です。その例は、全能主に従ったアブラハムのように、全能主の言葉にどこまでも従い通して、イサクを

捧げたように、信仰の行いを全うして行くことです。正義感に立つ行いは出来ませんが、信仰の行いは

自分の信仰の決断で出来ます。
なぜなら、全能主はこんな私たちでも、イエス様を通してアオリストの

救いを下さいましたから、「私は自分の義を立てる事は出来ませんが、全能主にあって残りの人生を

主に委ね、主に信頼し、主にお任せして行く中で信仰の決断が出来ます。」
なぜなら、主が成し遂げて

下さるからです。しかし、この行いに関しては、真理の二面性があることも理解しておく必要があり

ます。確かに、「どうしても自分にできないこと」に関しては、「全能主にお任せする」しかありま

せんが、もし全能主から「これをやりなさい」と言われたことに関しては、たとえ「自分にはできない」

と思うことでも、やらなければならないことがあります。自分にはできないと思うことを「全能主が

言われたのだからやろう」という気持ちに切り替えて行えば、
「主が成し遂げて下さった」という

経験を積み重ねて行くことになります。こうして、信じて従うことの確信が深まって行くのです。

(結)こういうわけで、私たちの信仰の土台は、イエス様のアオリストの贖いです。しかし、贖いを受け

取っても、義を表すことの出来ない私たちですが、信仰の行いは表すべきです。「自分は弱い者です」と

言って「何もかも全部、主にお任せして、自分は何もしようとしない」信仰は、死んだ信仰です。自分

自身がやるべきことまで、主にお任せしてはいけません。その逃げの根性は通用しません。
全能主は、

逃げない心を持って始め出す者を待っておられます。どうか、真理には二面性があることを理解して、

どこまでも『主に信頼し、信仰の努力をして』、信仰の行いを全うして行きましょう。
そして、信仰の

確信が深まって行く者とされましょう。


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