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2022年11月6日

献身の決意をもって、忠実に主に留まる

使徒の働き 11:19~26


(起)使徒行伝11章23節「献身の決意をもって、忠実に主に留まるように」という御言葉から、

「イエス様を信じた頃の原点にもう一度戻り、その献身の決意に忠実に留まること」を、学んで行き

たいと思います。


(承)さて、エルサレムでステパノの迫害が起こったことにより、使徒以外の弟子たちは地方に散ら

されて行きました。彼らはユダヤ人であり、異邦人との付き合いを律法で禁止されていた人たちです。

その為、ユダヤ人以外の者には誰にも御言葉を語らなかったのです。ところが、彼らの中で異邦人の

地に離散していたユダヤ人は、自分たちの生れ故郷の地に帰ると(使徒2:6)、ギリシャ人にも福音を

伝えました。すると、多くの異邦人も信じて主に立ち返ったのです。この噂がエルサレム教会に伝わ

ると、教会はバルナバをアンテオケに派遣しました。そして、バルナバがアンテオケに到着して、

信じた異邦人の信者たちに最初に語った言葉は、「献身の決意をもって、忠実に主に留まるように」

という勧めでした。それは、信じたときに最初に心に(のぼ)る思いが、「この救い主のために生きて

行きたい」
という、純粋な思いが込み上がって来るからです。この思いは、当然私たちも同じでした。

以前は、異邦人の未信者であった私たちが、イエス様の救いを知った時に、万物の上に立つ全能主の

存在を、直感で理解しました。そして、私たちの命を存在させた方は、私たちを偶然に存在させたの

ではなく、「一人一人に目的をもって命を与えられた」ということが分かって、「私たちの命を創って

下さったお方の御心に適った生き方をして行きたい」と思いました。それが自分の生き甲斐だという

ことが見えてきたからです。即ち、「自分中心に生きて行くのではなく、全能主を中心に生きて行き

たい」と思ったのです。それが献身ということでした。だから、献身というと、伝道者や宣教師、

牧師たちの生き方を表す言葉として用いられていると考えがちですが、そうではありません。信じた者

なら誰でも献身するのです。
それが、バルナバが語ったメッセージです。


(転)ところが、私たちは子供の頃から、当たり前のように自分中心に生きて来ましたから、その自分

中心な気持ちをひっくり返して、全能主中心にすることは、簡単にできることではありません。「心の

願いとして、全能主のために生きて行きたい」と思ったのは本心です。
しかし、素に戻ると、私たちの

願望や自分の欲望のために、「自分の思い通りにしたい」という気持ちで一杯になります。それは死ぬ

まで消えませんし、社会に出れば、「自分自身の地位向上自分の生活向上のために生きる」という

思いに、自然にはまってしまいます。すると、無意識のうちに、自分の権利を主張し、自分の思いを

優先するようになります。このような邪心が、私たちを信じたときの純粋な心から離れさせるのです。

このような現実にあって、心をもう一度信じた最初の心に変えるのは、本当に難しいことです。

しかし、その心を一瞬にして変える方法があります。それは、「本当の自分の願いは、どのように

生きたいと思っていたのか」
というところに戻ることです。どういうことかと申しますと、私たちは、

イエス様を信じた時、直感的に「このお方に全てを懸けて行きたい」という思いに満たされていたはず

です。それが私たちにとっての「献身の決意」だったのです。バルナバは、信じたばかりの人に、

「献身の決意をもって、忠実に主に留まるように」と言いました。それは、「信じた時に分かった

真理に留まりなさい」
ということです。自分の肉の願望や欲望をねじ伏せて、自分に言い聞かせる

のではなく、また、「信じたのだから献身しなければいけない」という律法で縛るのでもありません。

自分の本心に従って生きることを自分が願うかどうかです。
信じた時の「献身したい」という思いは

なくなりません。また、「肉の思いを通したい」という思いもなくなりません。それなら、そんな

ことで頭をごちゃごちゃ考えて悩ます必要はありません。献身の決意は、信じた時に持った純粋な心

です。それは、自分の命の価値を知ったからです。即ち、ここに自分の命の本当の使い所があると

分かったからです。
それなのに、そのうちだんだん混乱して分からなくなってしまうのは、サタンの

仕業です
。サタンは、私たちが信じた、明確でシンプルな救いを、雲霧に包み込んで見えなくさせ、

混乱させます。その混乱の中に身を置いてしまうと、「救いを疑ったり、献身したいと思った思いと、

どうすれば今それができるのか」などと考えるようになってしまうのです。それは、私たちの献身を

なし崩しにするサタンのやり口です。


(結)ですから、どうか、そのサタンのやり口を見破って下さい。信じた時の純な心は、失ってしまった

のではありません。ただサタンに混乱させられて、雲霧の中に包み込まれてしまっただけなのです。

そのことを意識して、最初のシンプルな救いの真理に戻って行けば、その混乱から解放されます。

そして、信じた時に直感的に芽生えた、「この方のために生きて行きたい」という気持ちが、自分自身

の本音として甦ってきます。
それが、私たちを一瞬にして献身に立ち戻らせる入口です。また、エネ

ルギーです。どうか、イエス様を信じた頃の原点にもう一度戻り、その献身の決意をもって、忠実に

主に留まって行きましょう。



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