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2022年10月30日

砕かれた悔いし心を持って、心を開いて行く

使徒の働き 2:47


(起) 「砕かれた悔いし心を持って、どこまでも心を開き、全能主の集大成の働きに使って頂ける

者」
となるように、学んで行きたいと思います。

(承) さて、ペテロたちは、聖霊のバプテスマを受けた後、大胆に伝道を始めて行きました。

すると、
彼らの話を聞いて喜んで受け入れた人たちは、皆バプテスマを受け、その日三千人が弟子に加え

られて行きました(2:41)。
また、2章47節を見ますと、「主は、救われる人々を毎日教会に加え

続けて下さった
とあります。すると、この時点で三千人は優に超えていたということです。次に、

4章4節を見ますと、「御
言葉を聞いた人々は、大勢が信じ、男の数が五千人ほどになった」とあり

ます。男の数だけで五千人
ですから、女、子供の数を含めると、二万人は超えていた可能性は十分あり

ます。そして、5章14節には
「主を信じる人々は、ますます加えられ続け、男も女も、おびただ

しく増えていった」
とあり、数は明確に記されていませんが、「おびただしく増えていった」のです

から、数えきれないほどの人数になっていた
ことが分かります。さらに、6章7節には、「全能主の

御言は、ますます広まり、エルサレムにおける弟子の
数が、非常に増えていった。祭司たちの多くも、

次々と信仰に入って行った」
とあります。これはもう、この時点で十万人位には膨れ上がっていたこと

でしょう。
また、8章12節には、「サマリヤ人は、全能主の国とイエス・キリストについて宣べ伝える

ピリポの話を聞いて、男も女も続々と信じて、バプテスマを受けた
とあります。最初はエルサレムが

中心だった宣教が、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土と広がって行きました。これは、正に「聖霊の

バプテスマが下るときに起こる」
と言われていたイエス様の言葉通りになって行ったということです。

このようにサマリヤの全土に渡って福音を伝え、聞いた人々が続々と信じて行ったということですから、

信じる人たちの勢いが広範囲に広がって行ったのです。これらのことから分かることは
私たちの教会に

与えられている十万人教会というビジョンは、決して絵空事ではなく、十分可能性がある
ということです。

そして、先週お話ししたように、このことは患難時代に入る前の今の時代に起こることであり、その

後すぐに患難時代がやってきます。
即ち、ヨエルの預言の通り、今の時代に、私たちを含め、すべて

の人に聖霊が注がれ、賜物を頂いて、主の集大成の働きをして行くようになるということです。


(転) ただし、そこで一番大事なことは、頂いた賜物を、自分の都合のいいように使うのではなく、

「全能
主の目的に適った使い方をする」ということです。その為に、これまで私たちが学んできた

ことは、たった
一つです。それは「砕かれた悔いし心」です。それを他の言葉に置き替えると、「心を開く」

ということです
私たちは、日常的に「心を開く、閉じる」ということを、自分の都合のいいように使い

分けてやっています
しかし、「砕かれた心」というものは、常に心を開くということを当たり前に

していくことです。
それは、これから全能主に使ってもらうためには、最低限、下手に出た心を

持って、仕えて行くべきだからです
。一般的に未信者の多くは、自分に対する指摘や小言、陰口など

を、全て心を開いて受け入れて行ったら、
生きて行くのも嫌になり、気持ちが()えてしまうと思って

います。ですから、通常はそう簡単には、自分の
心を開きません。心を開く時は、自分にメリットの

ある場合のみで、自分が責められるような時は、心を
閉じて形だけで謝っているのが現実です。

しかし、私たちの場合は違います。何故なら、私たちは、全能
主の前に罪人であっても、アオリストの

救いによって受け入れられているからです。
即ち、普通だったら捨てられてしまう罪人が、イエス

様によって受け入れられ、「罪赦された罪人」として救いを頂いているの
ですから、もう心を閉じる

必要はありません。私たちは、人から嫌われ、忠告されるような部分は死ぬまで()(まと)いますが、

その肉の性質を抱え込んでいても、救われているのです
。それならば、「罪人」という前提で、

人からの指摘も心を開いて
受け入れて行って良いのではないでしょうか。私たちは生まれながらに罪人

ですから、指摘されて当然で
むしろ気付けなかった自分自身が愚かだっただけなのです。それが分かっ

たら、変な面子(めんつ)拘る(こだわ)ことなく心を閉じるのを改めて行こうとすべきです。そうすれば、

自分がどれだけダメでも、失敗しても、心を開いて
指摘を受け留め、改めて行くことのできる世界が

開かれてきます。それが救いです。だから、私たちは死ぬまで心を開き続けて行かなければなりま

せん。
このことは、人との関係だけでなく、全能主との関係
において大事なことです。聖書には、

「徹底的に自分自身を否定し、自分の十字架を負ってわたしに
従ってきなさい。」(マタイ16:

24)とあり、自分を否定できないところが私達の泣き所です。それは、
自分を否定するより、弁解

してしまうからです。しかし、「罪人が自分を否定することは当然のこと」だと
悟れば、全能主も

その者に対して心を開き、安心して近づいて下さるのです。ですから、心を開くことは、
決して

自分が損をすることではありません。むしろ、全能主との交わりがますます正常で良い関係に
なって

行くのです。

(結) ですから、これから全能主の働きに使って頂くために必要なことは、この「砕かれた悔いし

心」
を持って、「心を開いて行く」ということです。それがなければ、主の働きはできないし、御国

に上げられた
としても、孤立してしまいます。すると、逆に天に置かれていることが(つら)くなって

しまうかも知れません。だから、私たちは主のもとに集められたからといって、それで安心していて

はいけません。「全能主に近づきなさい」と、聖書にも書いてあるのですから、心を開いて全能主に

近づくことは、救われた者の
幸いに(つな)がります。どうか、砕かれた悔いし心を持って、どこまでも

心を開き、この終わりの時に、全能主の
集大成の働きに使って頂ける者となって行きましょう。



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