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                                                                                                                              2022年1月23日


全てを()けて、全能主とイエス様を信じ抜くこと

ルカの福音書14:25~35

(起) ルカ14章25節~35節の譬え話から、「燃える心を持って、自分の全てを懸けて最後の最後

まで全能主とイエス様を信じ抜くこと」
を学んで行きたいと思います。


(承)
さて、この箇所でイエス様は次の譬えを語られました。「家を建てる場合、必要な費用を計算し

家を建て上げることが出来るかどうかを考えた上で決断をする」
と、また「戦いをする場合、二万人の敵に

対して一万人で勝てるかどうかを考え、勝つ見込みがなければ、初めから和平を求めるだろう」


この二つの譬えを単純にまとめてみると、「一つのことを成功させるためには、見極めが大切である」

ということになります。しかしながら、これを私たちの信仰に当てはめて考えると、「信仰を最後

まで全う出来るかどうかを、見極めてから信じろ」と言われているような気がします。しかし、そう

いう(とら)え方をして、「自分が信仰を全うできるかどうか見極めてから信じること」をしていたら、

私たちはいつまで()っても信じることは出来ません。だから、ここはそういう意味で語られている

のではないということです。
実は、この譬えの結論は33節にあります。「自分のすべての財産を

懸ける覚悟がなければ、
わたしの弟子となることはできません」と言われたイエス様の言葉から考え

ますと、「もし家を建て
上げようとするなら、自分の持っている全ての費用を注がなければならない」

また、「戦いに勝つ
ためには、こちらの全てのエネルギーを注がなければならない」という意味です。

それを私たちの
信仰に当てはめて考えると、「自分の全てを懸ける覚悟を持って信じ、従って来なさい」

ということです
そして、34節から見ていきますと、「塩は良いものです。しかし、もし塩がききめ

を失ったら、何によって塩味が取り戻せましょうか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられて

しまいます」
言われました。これは、「全てを懸けて行く覚悟を持って、全能主の役に立つ者と

なりなさい」
という意味です。つまり、「私たちの信仰も、そのように『全能主の役に立ち』、

『人に対して()き目のある信仰』
を持ったクリスチャンでなければならない」ということです。



(転) ところが、信仰の「効き目」を失っている多くのクリスチャンがいるのも現実です。どういう

ことか
と申しますと、「ほとんどの人が、『信じれば永遠の命を持つんだ』と自分のことしか考えて

おらず、信仰を安易に考えて、
『全能主に全てを懸ける』という、信仰の生き方をしていない」と

いうことです。
この大切な意識が欠落しているクリスチャンが多いのです。即ち、信仰は、救われる

ことだから、
「自分は、どんなことでも助けていただける」と思い、「クリスチャンとして信じた者だから、

自分たちが
苦しい目に遭う訳がない」と思って、患難の前に空中携挙されると考えているのです。

だから、
「どんな苦しみからも救って頂ける」という感覚を持ったクリスチャンが多いのが現実です。

この考えは
間違っています。むしろ、「自分にとって全能主が全てで、そのお方のためなら、この

地上で苦しんでもいい。悲しんでもいい。この地上での残りの一生は、キリストの証のために、

苦しみをも賜って
います。だから、天の『幸い』が約束されている以上、この地上のものは、たとえ、

父、母、兄弟を
失っても、主に従って行くのです」という意識をはっきりと持って、全能主のために役に

立つ生き方を
して行くべきなのです。御言葉には「あなた方は、キリストのために、彼を信じること

だけではなく、
彼のために苦しみをも賜っているからです」(ピリピ1:29)とあります。ですから、

クリスチャンは世から
憎まれることがあっても、全能主に対する信仰の生き方を通して行くべきです。

この世の人たちは、
お金儲け、ご利益が全てですが、それは悪魔がつくった偽物の救いです。本物の救い

は、天にしか
ありません。それは、罪の世界から解放されること、即ち全能主の御国に入れて頂く

ことです
。私たちは、元々罪深い者ですから、裁きが待っているだけでした。しかし、そこから

私たちを救い出す
ためにイエス様は来て下さり、命を懸けて贖いをして下さいました。それなら、

私たちはイエス様の
贖いを受けた者として、自分の命の全てを懸けて、全能主の役に立つことを追い

求めて行くのは
当然です。「信じたのなら、本気でその生き方をしなさい」というのが、ここで語ら

れたイエス様のメッセージです
そして、その生き方をした者には、救いが現実のものとなって、

天の御国に迎え入れられ、しかもその天の御国の中でも「聖なる都」に迎え入れられる最高の約束

さえあるのです
。ですから、クリスチャンなら、それが聖書に書いてある以上、そこを目指して信じ

て行くのが、クリスチャン冥利(みょうり)に尽きる、私たちの生き方なのです。



(結)
どうか、クリスチャンとして、この心をはっきりと持ち、全てを懸けて全能主の御国を追い求めて

行きましょう。しかし、私たちは、この霊的な生き方を、一歩教会の外へ出ると、世の中の人たちの

波に()まれて見失ってしまいます。この世の人々は、地上のことしか考えていませんから、私たちも

つい地上的になり、損得を求めて、天の御国を見失ってしまう方向に行ってしまいます。また、この


地上のことで競争しながら誇り合っている人たちの声が聞こえてくると、ふと、そこに心を向けてしまい


自分が生きていく信仰の拠り所が、ぼかされてしまうのです。それでは、天の望みもぼけてしまいます


この世の人々にとっては、それしか望みがありませんから、仕方が無いことです。しかし、クリスチャ


は、この世の命を閉じた後に救いがあることを知っていますので、騙されてはいけません。私たちは
もっと

もっと最高のものを追い求めているのです。即ち、この地上にあって、聖なる都を目指して
生きて

いるのです。
どうか、燃える心を持ち、最後の最後まで全能主とイエス様を信じて、自分の全てを

懸けて行こうではありませんか。
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