2021年9月26日
『霊にあっては、図々しく主を見上げていく』
マタイの福音書15章1~28節
(起)マタイ15章13節の「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、どんな木であれ、
根こそぎに引き抜かれます」という御言葉から、「私たちは、天の父がお植え下さった木ですから、
図々しく全能主を見上げ、イエス様を信じ続けて心を燃やし続けて行くこと」を学んで行きたい
と思います。
(承)さて、パリサイ人と律法学者たちは、イエス様の所にやって来て「なぜ、あなたの弟子
たちは、先祖たちの言い伝えを破るのですか。彼らはパンを食べる時に、手を洗っていません」
とイエス様に食いつきました。すると、イエス様は、「あなた方も自分たちの言い伝えによって、
なぜ全能主の戒めを無効にしているのですか」と責められ、最終的に「口から入る物は人を汚す
ことはありませんが、口から出ていくものが、人を汚すのです」と語られました。すると、律法学者
たちは憤慨して悟ることをしなかった為に、イエス様は「わたしの天の父がお植えにならなかった
ものは、どんな木であれ、根こそぎに引き抜かれます」と言い切られたのです。そして、「彼ら
を放っておきなさい」と突き放されました。なぜなら、全ての善悪の判断は全能主にあり、絶対
主が全ての権威を握っておられるからです。ですから、幾ら人間が正義感を働かせて主張して
も、全権を持って御国に入れられるのは全能主であり、この世の裁きは全てイエス様に委ねられ
ているのです。ですから、「天の父がお植えにならなかったものは、根こそぎにされる」とはっ
きり宣言されたのです。ということは、全能主が「良し」と言われた者だけが天の御国に入り、
そうでない者は天の御国に入ることは出来ません。ですから、パリサイ人のような自称信者の場合
は、全て全能主がどう判断されるか分からないのです。即ち「主よ、主よ、と言う者がみな天の
御国に入るのではない」からです。そして、御国に入れられるクリスチャンであるかどうかは、
「人の判断には依らない」ということでもあります。なぜなら、全能主は在って在る者であり、絶対
的な御方で、人の判断に左右されないお方であるからです。
(転)では、この真理を覚えつつ、21節から出てくるツロの女の記事を読んで行きましょう。
彼女は、天の父がお植えになったものかどうか、どちらでしょうか。彼女は、「私を憐れんで
下さい。娘が悪霊に取り憑かれて苦しんでいます」とイエス様に叫び求めました。しかし、イエス様
は一言もお答えになられず、全く相手にされませんでした。しかし、諦めずに叫び続けていると、
イエス様は、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、遣わされていません」と、
はっきり言われ、更に「子どもたちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よくないことです」
と言われました。ここまで拒否されたなら、普通誰でも、引き下がるしかありません。ところが、
彼女は、「主よ、お言葉通りです」と、イエス様から言われた言葉に腹を立てず、へりくだって
受け留め、「でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは頂きます」と答えたのです。
もともと彼女は異邦人の女で、イエス様から相手にされることのない女でしたが、それでもここまで
図々しくイエス様を見上げる心を表わしたのです。すると、イエス様は、この女の図々しさを
拒否されず、この女のへりくだりを見て「女よ。あなたの信じ仰ぐ心は見上げたものです。あなたの
願いどおりになるように」と、彼女の願いを受け留められたのです。いったい、イエス様の心を
揺り動かしたものとは何だったのでしょうか?彼女のイエス様への食い下がりは、自分の我の
押し付けであったのでしょうか?いいえ、決して押し付けではありません。彼女は自分の立場を弁え
ながら、下手に出た心をもって願っていたからです。ですから、押し付けがましい傲慢な物言いでは
無く、遜りから出た願いでした。本来なら、彼女が異邦人の女でしたから、イエス様に相手にされ
ずに終わっていたところを、敢えてイエス様は心を動かし「あなたの信仰は、見上げたもの
です」とまで、言われたのです。ということは、彼女は間違いなく、天の父がお植えになった
人とされた者です。このことは、私たちにも同じことが言えます。今ここに残された者たちは、
茨の中を通り抜けて良い地に蒔かれた種であり、天の父がお植えになった者です。ならば、その木は
永遠に引き抜かれることはありません。ですから、私たちもこのツロの女のように、へりくだり、
砕かれた悔いし心を持って、一生涯、図々しくイエス・キリストの贖いを信じ切って行くなら、
たとえ今は弱くても、御霊に満たされ、強くされ、癒されて、全能主の働きに使って頂ける者と
されるでしょう。天の父がお植えになったものなら、何があっても永遠に引き抜かれることは
ありません。私たちは、そこに根拠を置いて堅く立つのです。たとえ今、そのように思えなく
ても、この遜りの心をはっきりと表わして、信じ続けて行く姿勢だけは表して行くべきです。
(結)こうして、私たちは、生まれながらに罪人であり、死ぬまで罪人の肉を抱え込んで行く者
ですが、イエス・キリストの贖いによって救われ、そして主の働きに召され、今その中にいる者
です。ですから、私たちは天の父がお植えになった者として、大胆に図々しく全能主を見上げ、
イエス様の働きのために用いられて行くなら、クリスチャン冥利に尽きるでしょう。イエス様は、
「砕かれた心だけでいい」と言われているのですから、私たちは肉のことで、いちいち滅入るの
では無く、また律法的になる必要もありません。律法から解き放たれた者として、ツロの女のように
図々しく信じ通して行こうではありませんか。罪赦された罪人に出来ることは、この信仰に尽き
ます。この心を燃やし続けて行きましょう。そうすれば、すぐにでも働きは始まって来るで
しょう。
|
|