2021年10月3日
『自分を低くして全能主に仕えて行く』
マタイの福音書19:13~15
(起)マタイ19章14節の御言葉から、「もう自分の肉のことは、どうでもいいのです」と
本気で言える心を持って、「自分を低くして全能主に仕えて行くこと」を学んで行きたいと思い
ます。
(承)さて、ある時、イエス様に手を置いて祈ってもらうために、人々が幼子たちを主の御許に連れて
来ました。すると、弟子たちは彼らを叱りつけて、幼子を退けようとしました。ところが、イエス様は
「幼子たちをそのままにしておきなさい。止めてはいけません。天の御国は、このような者たちの
ものだからです」と言われたのです。しかし、この箇所を読んだ時、何故イエス様は「天の
御国は幼子たちのものです」と比喩されたのか、よく分かりませんでした。しかし、その答えの
真意は18章4節に、そのヒントが出て来ます。イエス様は弟子達から、「天の御国では、誰が一番
偉いのですか?」と問われた時に、「幼子のように自分を低くする者が、天の御国では一番偉い
のです」と答えられました。すなわち、「幼子のように自分を低くする」という事の真意は、
「理屈なしに素直に信じる」ということです。そして、そこが天の御国に繋がる所だと言われた
のです。ところが、昔から「子供には罪がない」とよく言われますが、実際には罪のない子供は
いませんし、逆に子供の方が大人より、えげつない罪深さがあります。それは弁えがなく、
わがままを遠慮無く通そうとするからです。そして、「こうすれば可愛がってもらえる」とか、
「こうすれば願いを聞いてもらえる」とか、「こうすれば怒られないで済む」ということを小悪魔の
ように見抜く能力を持っているのです。そんな幼子が、「子供は生れながらに下手に出て、砕かれた
心を持っている」とは言えません。しかし、ただ「自分を低くする」という意味では、子供は大人
に依存して生活していますし、大人の前では自分を低くしなければ通用しません。ですから、
嫌でも、親の言うことを聞こうとする一面があります。こういう意味で、「幼子のように自分を
低くする者」とイエス様が言われた真意は、幼子は理屈をこねずに信じる心があるということで
す。ですから、その部分が天の御国に繋がる部分であると教え諭されたのです。
(転)しかしながら、私たちが「自分を低くする」ということを、ただ見せかけでやっても、
それは意味がありません。本当の意味で、心から自分を低くすることが出来るかどうかが肝心
です。それは、信じた時に、自分は理屈なしに罪人だということを自覚していたかどうかに依り
ます。どういうことかと申しますと、誰もが皆、生れながらに自分のダメさ加減は自覚しています
が、その自分が「罪人として裁かれる者だ」という意識は持っていません。何故なら、どんな人間
でも、皆弱い部分を持っており、「自分は身勝手な人間、醜い罪人です」と言ったところで、他人
から見れば、「そんなものは、人間だったらみんな抱えているし、当たり前だ」と言われて
しまいます。だから、多くの人は自分の罪を表面でしか理解しておらず、「自分は本当に罪深い
人間だ」と、本気で悩み苦しむ人は稀です。また、余程のことが無ければ、罪を犯して落ち
込むような所にまで自分を追い込むこともしません。多くの場合、むしろ開き直って他人の所為に
するのが関の山です。なぜなら、自分が犯してきた罪は自分の良心が一番よく知っていますが、
それはバレなければ、大恥を曝け出すこともなく、自分だけのものとして隠しておけばいいから
です。ですから、自分の心の中で、もみ消すのが日常になっているわけです。そんな人間が地獄に
行きたくないからと、イエス様を信じるのは、保険を掛けている様なものです。実に身勝手な信仰心
です。その証拠に、信じた後に、本気でイエス様にあって生きて行こうと思う人は稀だから
です。ですから、そんな動機でイエス様を信じたとすれば、それは、はっきり言って御利益宗教
であり、そういう人は、信じた後でも「イエス様は救い主だから、私の願い事は聞いてくれる」と
いう自分勝手な感覚で、自分の願望を追い求めて行くだけです。そこには、「全能主に従う」という
観念がありません。こういう訳で、多くのクリスチャンは「下手に出る」とか「自分を低くする」と
いうことが身に付いていないのです。それは単なる見せかけで終わっています。しかし、もし罪人だ
ということを本気で自覚して信じたのなら、「生まれた時から死ぬまでの、あらゆる罪が完全に
贖われ、自分のような者でもアオリストの救いを頂けたと確信し、しかも全能主に受け入れられ
たことが分かったならば、「後は何もいりません」と、「自分のことは、もうどうでもいいの
です」という気持ちに変えられるはずです。この救いが分かった人は、「下手に出ることを惨め
だとは思いませんし、またアオリストの救いを本気で感謝する人ですから、全能主の前に自分を低く
して従うことが当然の事となる」のです。それは、御利益を求めて信じたのではないし、自分の願望を
追求するために信じたのでもありません。むしろ「罪人であることを本当に自覚し、イエス様の救いを
涙を流して信じた」のですから、「自分のことは、もうどうでもいい。イエス様のために生きたい!」
と、心底そのように願って心に据えられて行きます。すると、「イエス様の為に生きたい」
という願いは、当然「自分を低くする」所から出て来ますので、クリスチャンにとって「自分を低く
すること」は当たり前のことになるのです。それが救いを頂いた罪人の心であり、「自分を低く
する」ことの真意なのです。
(結)このように、私たちにとって、全能主と繋がる肝、すなわち秘訣は、この部分にしかあり
ません。この世では、「罪を自覚し、自分を低くする者」を馬鹿にします。でも、そのように
「馬鹿にされる者、自分を低くする者」を救うためにイエス様は来て下さったのですから、それ
はイエス様に適う者たちです。逆に、救いが単なる恵みだと思って信じた人たちは、罪を棚上げ
して傲慢になってルシファーと同じになってしまいます。ですから、私たちは変に救われたことに
自信を持たない方が良いのです。むしろ、自虐的な人の方が、全能主は「その方が安心だな」と
言われます。なぜなら、クリスチャンは、救われた罪人ですから、(救われたと言っても罪人で
あることには変わりがありませんので)全能主の前に傲慢であるより、生涯自分を低くして丁度
です。ですから、私たちは「全能主のためにあれをやりました、これをやりました」と、お土産を
持って天に行くのではありません。むしろ罪人ですから、何も持って行くことは出来ませんが、
イエス様を信じる心だけは、誰にも負けない信仰を持って行くのです。全能主は、そういう人々
を受け入れて下さるのです。ですから、クリスチャンは「自分を低くして全能主にお仕えして行く
だけでいい」のです。私たちは、イエス様の贖いによって全能主と結び付けられ、永遠の命を
頂いたのですから、それだけが私たちの全てです。どうか、「もう自分のことはどうでもいい
のです」と、本気で自分を低くして、全能主に本気で仕えて行こうではありませんか。 |
|